August 23, 2018

【445】羊羹を作る。

羊羹。
夏目漱石も好きだった文学的由緒正しいお菓子である。

寒天を戻す。


砂糖と寒天を溶かす。


こしあんを加える。
スーパーで買ってきた800グラム300円ぐらいの袋詰のやつを半分ぐらい。
たぶんつぶあんでもできると思う。


あんを溶かす。


混ぜる。


水分が減ってくるにつれ粘度が上がって泡が大きくなる。
このあたりまで来ると「練る」感じ。


ヘラで混ぜたときに鍋底が見えるぐらいまでしっかり練る。


型に流す。


冷えて固まる。冷蔵庫だと早い。


切る。


特に言うべきことが見当たらないぐらいちゃんと美味しい。
あんから作ればもっと美味しくなるかもしれない。

大量に砂糖が入っているので、そう簡単に腐らない。
試す気にはならないけれど、常温で一年ぐらいは保つらしい。

で、
もともとは中国の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類であった。(ウィキペディア「羊羹」)
というのだから驚きである。
良くもまぁここまで変形したものだ。

August 21, 2018

【444】柿渋を作る。

実家の渋柿で柿渋を作る。時期はお盆の頃がいいらしい。

二年前に仕込んだときのエントリーはこちら。
【361】柿渋を作ってみる。その1
【362】柿渋を作ってみる。その2(追記あり)
今回はだいぶ量が少ない。


つぶす。



ここに水を入れて、一週間ほど発酵させてから汁を絞って瓶に入れ、熟成させる。

で、二年前のやつがどうなったかというと、まるで醤油。


二年前はこんな色だった。

手ぬぐいを染める。


陽に当たるともう少し色が出るかもしれない。

August 8, 2018

【443】トルコのタイルを貼る。

半年ほど前になるだろうか。近所の方からトルコのタイルをもらった。

亡くなった旦那さんが生前に旅行で買い求めたそうで、机か何かに使おうと思ってられたらしいのだが、その前に亡くなってしまったため、それからずっととっておいたらしい。

旦那さんのお葬式には僕も出た記憶がある。いつだっただろう、もう二十年ぐらい前なんじゃないだろうか。

我が家なら何かに使ってくれそうだからと言って渡されたのだけど、なかなか使いみちが思い浮かばずにいた。時々出して並べて見たり、散歩しながらあれこれ考えてみたりしていたのだけど、これといった決め手がなく、箪笥の上にしまい込まれていた。それが、昨日ようやく踏ん切りがついて、ホームセンターにタイル接着用のセメントを買いに行った。で、今日貼り付けた。

作業は、養生してセメントをコテで塗り、その上からタイルを貼って、木槌で軽く叩く。


何度も考えた割に芸がないのだけど、台所の壁に貼った。枚数の都合上、ここは一列だけ。それでもかなり雰囲気が変わる。



棚の後ろの壁にも貼ってみた。なかなかイスラミック。



タイルを貼るのは初めてだったけど、意外に簡単に貼れるし、雰囲気が一気に変わるので、楽しい。こんな感じで少しずつ変わっていくのが我が家である。

August 6, 2018

【442】大学のような場所をつくりたい

身長が平均の10倍だという人は存在しない。3倍もまずいない。2倍の人すら怪しい。しかし、平均年収は百倍、千倍ひょっとしたら万倍の人が存在する。身長は正規分布に従い、年収は冪乗則的な分布に従う。

人が一年間に読む本の量をプロットするとどのような分布になるだろう。おそらく身長のような正規分布にはならず、年収のようなべき乗則的な分布になる。

単純な冊数、ページ数、文字数でもおそらくある程度そうなるだろうし、本の「質」にまで踏み込んで重み付けすれば、さらに極端な「高読者層」が現れるだろう。一般の人の百倍、千倍(ひょっとしたら万倍)といった規模で本を読む人たち。

同じように、音楽をたくさん聴く(奏でる)人、絵をたくさん見る(描く)人にもこの分布は当てはまる。一般の百倍、千倍のリソース(時間、エネルギー)を投下する人たちが存在する。音楽や絵や本のような文化的なものに限らず、どのような領域であれ、そのような「ある対象領域(ディシプリン)」を設定することができれば、同じような分布を描き、グラフの右端に存在する人(マニア)が浮かび上がる。

人の話を聞いて記事を書くという仕事をしていた経験上、こういう冪乗則の右側、いわゆるロングテール部分にいる人の話はまず間違いなく面白い。ある対象に対し、一般の人の百倍、千倍の資源を投下した人がその対象領域について語るとき、その内容の面白さはもちろん、その上、話体のレベルから異なっていると感じる。

話を聞く前にはさほど興味がなくても、話を聞き終わる頃には興味が出ているということがあり得るし、まず話し方からして何かが違うと思わせ、集中を促すような雰囲気をまとっている。なにより納得性が高く「話術」のレベルで測れない浸透度がある。

膨大な具体例に直面した結果、積み上がった高倍率な視界だけではなく、「読むとはなにか」「音楽とはなにか」「絵とはなにか」といった一般的には愚問でしかない「そもそも論」に数限りなく晒され、無為な自問自答を繰り返してきた基礎体力のようなものが醸し出すなにかがあるのだと思う。

しかし、ここで問題になるのは、単純な資源投下量ではなく、その資源を「どこに」投下したかという領域の事後設定性にある。この領域は、予め設定されているわけではなく、過剰に投下されたあとに、偏差として浮かび上がってくるもので、たとえれば、数限りなく石を投げたあとに、たくさん落ちていた場所をざっくりと囲む線のようなものだ。そう簡単に領域は設定できない。

次に問題になるのが、その領域自体の「適格性」だ。

例えば、人を罵ること、貶めること、騙すこと、傷つけること、殺すこと、などに対し、膨大なエネルギーを投下してきた人の話は、たしかに「面白く、興味を引く」だろう。しかし、その話を本当に聞くべきかどうか。聞くとすればどのような領域設定となるのか。その領域設定自体の適格性が問われる。

これらのことを考慮した上で、「ある領域」についての冪乗則の右側ロングテール部分にいる人の話を聞くことを「講義」と名付けて、いくつかの講義が定期的に開かれるような場所をつくりたい。イメージとしては「大学」であり、ここに書いてきたことは僕の理想的な大学像の基礎的な要件である(ごく当たり前のことだけど)。

August 4, 2018

【441】Wikipediaをよく読む。

哲学書を読んでいると、その哲学書の次ぐらいに、ひょっとしたらその哲学書以上に、よく読むのがWikipediaで、だいたいわからないことや確認したいこと、要するに何か引っかかったときにWikipediaを読んでいる。

Wikipediaは万能でも完全でもないが、もはや薄っぺらとは言い難いレベルにはなっている。もしもWikipediaで満足行かなかった場合、次にあたるべきは原本だ。

つまり、スピノザが気になってWikipediaの「スピノザ」を読んで、スピノザが言い渡された「ヘーレム」の徹底的な追放感にぎょっとしたりしつつ、さらにスピノザが気になり続けたら、その次に当たるべきは、『エチカ』となる。中間はない。

そんなわけで、今年もWikipediaに寄付した

【440】「本好きが本の話をする時間」第1回の様子

昨夜の「本好きが本の話をする時間」、デカルトの「方法序説」の話をした。これは話せてよかった。

つい最近読んだのだけど、この本て実はこんな本だったのかと結構驚く。現代哲学からすると、ものすごくのんびりしている。主語は「私」で「我々」ではない。ルソーの「告白」のように、自分の生い立ちから語っている。半ば小説として読める。その流れの中で、例の哲学史上もっとも有名といってもよい一節が現れる。

かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考える「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。そうして「私は考える、それ故に私は有る」というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第一原理として、ためらうことなく受け取ることができる、と私は判断した。
(落合太郎訳)

主語が「私」であるのは「私は考える、それ故に私は有る」と書く以上、必然性があった。私にとってはそうとしか言えない、私にとって疑う余地がないことを、最初から他者と共有したものとして扱えない。「我々が」という文体では、結論に到達することはおろか、思惟すら始められない。現代からこの本を照らすとき、光はそのように差し込んでいく。「我々」の中から「私」を抽出し特別な位置に置くために、デカルトはすべてを疑わざるを得なかった(異端とされる危険を犯しても)。

自らの方法序説を書き始めることには、あるいは、その契機を掴むことには、「我々」が入る余地はない。

大陸合理主義の立場にいまさら立つということはありえないけれど、僕はこの本は良い本だと思う。できることならば、「僕たちは」、「私」の方法序説を、書くとまでは行かないにしても、語ったり、考えたり、思ったり、感じたりすれば良いと思う。

次回の「本好きの時間」は10月5日(金)夜です。