June 18, 2019

【577】書くことはゆっくりだ。

人の営みの中で最もゆっくりだ。書くことは、たぶん。

ストリートダンスで、まるでスローモーションで動いているような動きをするのがあるけれど、あんな感じでゆっくりなのだ。試しにやってみるとわかるけれど、あれはものすごく筋力がいる。筋肉への意識の精度も高くないとできない。

だからゆっくりといっても、休憩しながらのんびりというようなものではなくて、書くという時間は、全力でずっとゆっくりしている。

紙やキーボードに向かっている間だけが書いているわけではもちろんなくて、書いているという時間は、書こうと思った瞬間に、全部の過去と、全部の未来と、現在の全部を包括してしまう。過去と未来と現在が召喚されて、ゆっくりと文字になっていく。それが書くということが棲まう世界の独特の時間のルールだ。この時間のルールが、数千年前の書物が今も、これからも、遺っていく原理になる。

書くことは、ゆっくりとゆっくりと進んでいく。だからこそ、書くことは高密度で現実を見ることができる。それ以外の時間では見逃すようなことを、当たり前に「まるで止まっているかのように」見ることができる。ことがある。

そのようにして書かれたものを読むことは、現実世界で文字数分にまで圧縮された膨大な書くことの時間を自分のうちで展開することになる。読むことで、書くことのその時間は流れ出し、流れ込む。

書くことと読むことがもたらす当然の帰結の一つとして、現実の裏側、現実の仕組み、そういった現実を支える非現実が少しだけ、現実の向こう側に透けて見えるようなことが起こる。それは、このゆっくりとした時間、高密度な現実の見え方に起因する。

浮かんだり消えたりしながら川面を流れ去っていく泡のような現実を、浮かんだり消えたりしながら川面を流れ去っていく泡のようだと書くことは、泡そのものとして浮かんだり消えたりしながら押し流されて生きていくこととは、違う時間を持っている。永遠と言われる時間だ。

僕が他人に誇れることのうちの一つなのだけれど、人一倍、書くことに挫折してきた。書くことにおけるあらゆる場面で、僕は挫折してきていて、普通の人ならば挫折しなくていいようなところまで出掛けて行ってわざわざ挫折している。その分、書くということがどれほど広いかを識っているとも言えるし、書くことのゆっくりとした時間に居る時間が長いということでもある。

挫折と言うとあれだけど、釣りのようなものだと思う。釣りをしたくなって、魚を釣ろうとして、釣りに行って、釣りをしたけれど、ひとつも釣れなかったということはある。釣りというのは釣れたときにだけ成立するわけではなくて、釣れなくても釣りを釣っている。釣れる釣り人は上手な釣り人かもしれないが、釣れない釣り人が不幸な釣り人だとは限らない。釣りをしていることと魚が手に入ることは、切実に関係しながらも、目的や手段を結ばない。

泡のように浮かんだり消えたりしながら川面を流れつつ、ずっと川岸で釣り糸を垂れている。


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