うちでは家事について役割分担を予め決めるということをしていない。これは意図的にそうしてきた。やれる人がやれるときにやる、というやり方だ。
言い方を変えれば、家事という労働を取引に用いないということだ。これを私がやったから、あなたはあれをやらなくてはならない、というたぐいの取引に。
こういう取引は文字通り経済(エコノミー)である。異なる2つのものを交換可能にする。交換可能であることによって、もともとは他者にまで流通しなかったものをを移動可能にすることができる。掃除、洗濯、炊事、その他諸々の作業が労働として交換できるようになる。役割分担によって。
と同時に、節約(エコノミー)が始まる。自分に与えられた職務は、できるだけ効率よくやったほうが得である。必然的に損得(エコノミー)が発生する。
僕は、「節約」や「損得」を家というものに持ち込むことが嫌だった。家のことを交渉材料に投げ入れたくなかった。だから、役割分担をしないようにしてきた。
もちろん、この「やれる人がやれるときにやる」やり方には、欠点がある。というよりも、同じことを別の方向から見るだけなのだが、文字通り、不経済で非効率なのだ。節約ではなく蕩尽なのだ。
まるネコ堂というものが持っている「のんびりした」「時間を忘れる」雰囲気は、この不経済、非効率、蕩尽によって生まれている。こういった世間的にはネガティブとされる語群を意図的に反転させている場所なのだ。これがまるネコ堂という場所の持っている目に見えない基礎の一部を形成している。
わざわざこういうことを書くには理由がある。今、この非役割分担制が一時的に限界に達しつつある。理由は簡単で、子育てというのは、無尽蔵だからだ。子供に対して親は無限の愛情を注いでしまう。それは、表層的には無限の時間と無限のエネルギーを要求する。
まるネコ堂は、こういった無限の吸収源に対して、ぴったりと適応してしまう構造を持っている。一滴残らず投入され尽くしてしまう。
これはまるネコ堂の持っているもう一つの大切な基礎、「開かれている」という状態を削り取っていく。ほおっておくと閉じていってしまう。閉じたくなってしまう。僕と澪がそれぞれ持っているはずの表出の発露の機会が失われていく。外からの流入も途絶えてしまう。表出が失われることは僕にも澪にも耐え難いストレスだし、すでにそのストレスを感じている。いや、もうすでに、限界が近い。
これはよくない。
ということで、子育て担当制を部分的に導入してみることにした。
今日はその初日。日中、子供を澪が見ることを事前に決めた。今後週一日程度、こういう日を作って、僕と澪とで交代で子供をみることにする。
自覚的であることで、分担をポジティブに保つことができるかもしれない。節約ではなく。
さて、どうなるか。