わりと長く生きてきたけれど、僕にとって今でも重要なことは、好きなことであって、そのなかでも、ちゃんとやってきたことだけだ。好きでもちゃんとやらなかったこと、好きでもないけどちゃんとやったこと、というのもたくさんあるけれど、それらは時々人に話して聞かせる、思い出話として過去を彩ってくれている。それはそれでいいとは思うが、その程度のことだ。
好きなことをちゃんとやるというのは、常に現在形で、過去形「好きだった」「ちゃんとやった」や未来形「好きになるだろう」「ちゃんとやるだろう」では存在できない。
これは「現在に集中せよ」や「現在しかない」というような狭い意味ではなく、過去や未来を含んだ、過去や未来にまで届きうる現在なのだ。
物理的な「この」現実世界の構成として過去と未来は水平に伸びていくが、好きなことをちゃんとやるという軸はそこに対して垂直に位置していて、その垂直軸を進んでいくと突如開ける別の水平面が現れてくる。物理的な世界の言葉で言えば、それは幻想世界としか言いようのないものだけれど、その幻想世界は、幻想世界の「言葉」として「確かに存在している」。実を言えば、言葉というものが幻想世界を支えている構造の一つであると同時に、言葉というものの根拠が幻想世界にあるのだ(おそらくは音楽や絵画やその他の表現のすべての根拠も)。言葉は現実世界に根拠を持っていない。
幻想世界が存在できるのは人間がそもそも幻想世界の存在を基底に持っているからで、世界にとって後天的に幻想世界が現れたわけではない。
もう一度、繰り返しになるけれど、この幻想世界への通路は「好きなことをちゃんとやる」ことである。