こういうタイプの言い方は世の中に溢れていて、もちろんそれはそうなのだと思うと同時に、この言い回しに隠れている、ある寂しさに僕たちは慣れてしまってはいけない。
ある音楽について話すということが、その音楽そのものとは違っているということは当たり前だけれど、それと同じように、その音楽そのものも、その音楽をある音楽家が作って表現しようとしたもともとの「なにか」、例えば美しい風景であったり、素敵な想い人であったり、奇妙な体感であったり、心動かされた状況であったり、かけがえのない時間であったりする、そういったもともとの「なにか」とは当然違っている。どれほど厳密に再現されているかのように見えても、冒頭の疑問文が問題視している「意味」では、違う。この「違い」は、表現のもつ宿命のようなものだ。
こういう「そもそも」とか「もともと」とか、そういう「真実」だけが意味なり意義なり価値なり実体なりを持っていて、そこから派生したり、影響されたり、引き出されたりしたものは、「そもそも」や「もともと」の「真実」から一段下がる、という考え方自体が寂しいのだ。
しかし、表現とはその程度のものなのだろうか。
冒頭のような言い回しに直接「いいえ」と答える必要はない。とりいそぎ、それは、表現というもののある一面に過ぎず、もっとほかの面をも表現は持っているはずで、だからこそ、多くのものに対して言葉や音楽や絵や、つまり表現は成されてきたのだ、と返せばいい。
そして考える。
もともとの何かと、それについて話された言葉が、結局のところ異なっているということとは、全く別の次元で、言葉にするということは、ある動揺を生み出す。その動揺が一体何を引き起こすのかを一意に決めることはできないが、少なくともその動揺が、何かしらを引き起こす可能性があるということは確かだ。
その可能性は、それまではこの世界のどこにも存在しなかったはずの小さな場所を作り出す。その場所から見ることで、もともとの「なにか」は、それまで誰も見ることができなかった姿をしているかもしれない。だとしたら、それについて話された言葉によって、「そもそも」や「もともと」の「真実」自体が変質したことになる。
言葉で話されることによって、それまであった「真実」が変質する。
ある音楽についての言葉が、そもそものその音楽を変質させてしまうということだ。これは、もちろん、ある音楽が、その音楽が生み出される動機となったある状況、例えば美しい風景、素敵な想い人、その他諸々のそれ自体を変質させてしまうということでもある。
ある言葉によって、その言葉によって話されるものが変質してしまったり、ある音楽によってその音楽が表現しようとした元の何かが変質してしまったりするというのは、過去に原因があり、その結果が現在や未来に生じるという意味での因果関係では説明できない。現在によって過去が変質しているような順序になっているからだ。
端的に、そこでは、音楽というものがそれまでとは異なってしまう。その「そこ」とは、どこだろうか。こういうことが起こるとしたら、いったいどこで起こるのだろうか。
こういうことから逆算的に、それが起こる「そこ」を、表現が作り出した「小さな場所」と想定すれば、表現というものが成しうる「無限の広さ」を特定できたことになるのではないか。そこでは、「そもそも」や「もともと」や「真実」は、その言葉自体が別の意味合いを持っているのではないか。「そもそも」や「もともと」や「真実」は予め存在する確定されたものではなくて、遡及的に変容してしまうものなのではないか。
ああそうか、音楽って「そもそも」こういうことだったのか、と。
明日香がモーツァルトやベートーヴェンのソナタについて、どうにかして、言葉にしてきたことは、その曲の数百年の歴史に付け足した添え物ではなくて、一つの場所を持った一つの表現である。その言葉による表現に加えて、演奏による表現が合わさった重層的な小さな場所では、もともとのその曲が輝きを変え、その曲が表そうとしたもともとの状況、つまり数百年前の「なにか」の輝きすらをも、もともとそうだったのだと、さかのぼって変容させる。
それぐらいは、マジカルなことが起こっている。
レクチャーコンサートで何をやっているのか、ということについて、現時点で考えているのはこのあたりまで。
次回のレクチャーコンサートはシューベルトです。
7月15日(月祝)。
ぜひおいでください。
【催し】山本明日香レクチャー・コンサート(定期開催)