子供が絵本が好きで、毎日何度も読み聞かせをせがまれる。たぶん、多くの子供が絵本が好きだし、おそらく僕も絵本が好きだった。毎日何冊もあるいは同じ本を何度も読んだ。それが何年か続く。
しかし不思議なことに、大人になってみると多くの人は絵本がそれほど好きではなくなっている。毎日読んだりしない。少なくとも子供が持っている絵本に対する強烈な情熱を保持していない。そういう人がほとんどだ。僕もそうだ。いつの時点でか、絵本から離れた。
なぜ絵本から離れたのか。興味がなくなった。他のことに関心が移った。ということなのだけど、その「興味がなくなった」「関心が移った」ということは、一体どういうことなのだろう。絵本が嫌いになったわけではない。今でも絵本に対してある種の憧憬を持っている。子供の頃の絵本を読んだり読んでもらったりした経験そのものの記憶が劣化したり反転したりしているわけではない。だからたぶん、今でも「絵本は好き」なまま、「興味がなくなった」り「関心が移った」りしている。
どんなに絵本が好きでもすべての絵本を読むことはできない。だから「絵本に興味を失う」という現象は、好きである絵本のすべてを経験する前に起こる。一体どうやって好きなものへの興味を失うのだろう。その時何が起こっているのだろうか。
何か「興醒め」するような出来事が外部的に発生したということがまず考えられる。そういうこともあるだろう。しかし、この場合は「興味を失った」という「興醒め」のシーンを明確に思い起こせるはずだ。あるいは、それを忘却したとしても、なにかそういうある衝撃を持った出来事があったという痕跡ぐらいは残る。しかし、すべてがそれで説明がつくような気がしない。むしろ、なんとなくいつのまにか「興味を失う」ことのほうが多いように思える。
ここまで「興味を失う」というフレーズを維持して話を進めてきた。「何かが起こることで興味を失う」という前提でその何かを見ようとしてきた。が、おそらくそうではなくて、どちらかというと「興味を維持する」ことのほうに何かがある。「なにかが起こることで興味が失われない」のではないか。
興味というのは、一度生じればそのまま放置していても維持されるものではない。炎のようなもので、燃料や酸素が供給されなければ消える。「熱中」していたものが「冷める」。「興醒め」はもともとそういう言葉だ。
なにかの外部的な要因で燃料や酸素の供給が途絶えることもあるが、燃料や酸素を使い尽くしてしまうということもある。それ以上にもっとありえるのが、燃料や酸素が、燃え盛っている炎に対して十分な供給量を確保できなくなりそうだ、このままだと近いうちになくなってしまうという予感や予想がたったときに、薪をくべたり、酸素を送ったりすることをやめてしまう。つまりそこにある薪や酸素の量の見込みが立ってしまったとき、興味を失う。こう考えれば、興味を失うのは、実はとても当たり前なことだと思う。やればやるほど興味を失いやすい。早く燃料が尽きる。
むしろ特殊なのは、興味という炎がなぜ消えるかではなく、いつまでたっても炎が消えないことがあるということのほうだ。そんなことがなぜ起こるのか。どうやって起こっているのか。
一つの筋道を考えることができる。薪の比喩で言えば、盛大にボイラーに木片をくべながら、同時に植林するようなことが起こっていることになる。これは消費から生産への立場の転換で、つまり、大人になっても絵本が好きで毎日絵本を読んでいる人のいくらかが当てはまるのだろうけれど、絵本作家や絵本を作る側に回ることだ。
これで解決されるかのように思える。
が、しかし当然のことながら、絵本作りというものへの興味自体もまた何かしらによって維持されなければならないことになる。そうやって立場を変えていくこと、例えば職掌を大きくしていくことや、仕事の規模を大きくすることで、それは実現できるかもしれないけれど、根本的には同じことを反復している。あとは人間の寿命との兼ね合いの問題で、死ぬまで絶やさず燃やし続けられるかということになる。
でも、と思う。そういうことなのだろうか。どこか釈然としないのは、たぶん比喩の限界に近づいているからで、炎や燃料の比喩ではこういう結末になってしまうということだと思う。
だから、炎の比喩を棄却して、もう一度もとに戻る。
一気に書けると思えないが、なるべく書くと、興味というのが起こるのは、それそのものに対するとらえ方が全体的に変化してしまうということなのではないか。そういうものだと思っていたことが、実はそうではないかもしれないというときに興味は起こる。この、それまで思っていたことが、どうやらそもそもそうではなかったという前提の喪失、遡及的な組み換えのようなことが、それ全体を再活性させる。
絵本が好きでたくさん読む。ときどき、あれ?絵本って実はこういうものだったのか、いままで絵本だと思って読んでいたあの経験はいったいなんだったのか、ということが起こる。もちろん、こんなことがいつも起こるわけではない。しかし、時々起こる。時々で十分だ。
だから差異の問題ではない。絵本Aと絵本Bの差異が興味を掻き立てるということではない。これだといずれ、いずれというのは、比較的短期間に、思った以上に早く、「燃え尽きる」。そうではなく、絵本Bを読んだら、それまで読んできた絵本Aが何か別の絵本やあるいは絵本じゃないものになってしまう。そういうようなことではないか。それそのものを暗黙に規定していた前提が変わってしまうようなことだ。この場合は、絵本Aと絵本Bの差異だけが焦点化されるわけではなく、絵本Bがその全体をもって、絵本というものの前提を変えてしまったかのような経験をするかどうかが問題となる。こういう経験が時々起これば、興味は失わない。
そんなに大それたことなのかと思うが、それぐらい大それたことなのだと思う。それぐらい僕らは物事への興味を失う。興味を失わないでいることが難しい。失った興味を別の何かに新しく乗り移ることで補おうとする。そしてやがてまた失う。また乗り移る。また失う。そういう流れのなかにある。これを否定することはできない。その必要もない。たいがいはそうなのだし、それでいい。
口癖のように「おもしろい」という言葉をよく僕は使う。人より多く使う分、その言葉に対して、何かしらのことを言わなくてはと思う勝手な自負がある。誰からも頼まれていない。幸いなことに僕はまだ書くことや読むことへの興味を失っていない。おもしろい。それらは時々、それら自身の前提を変えてみせる。今もそうだ。いつまでもそうなのかはわからない。そうでなくならないようにするには、今もそうするぐらいしか思い当たらない。読むことや書くことがおもしろいということが起こっている。幸いだ。