August 26, 2020

【740】『ゲンロン』を読む。

相変わらず本を読む。

ゲンロン』の第Ⅰ期、1から9と0を揃えてせっせと読んでいる。今日的な問題を取り上げて日の当たる場所に並べていく作業は見た目以上にとても力がいる。そういった作業は、それそのものである今日的な問題にすぐさま突き当たるからだ。『ゲンロン』が巻き起こしていく「炎上」は、今日的な問題の在り処をしめす狼煙のようなものなのかもしれない。

『ゲンロン7』に掲載された、國分功一郎、千葉雅也、東浩紀の鼎談が良かった。三人それぞれが異なる立場にありながら、同じような領域を観ている。意見が合うことよりも異なることが価値を生み出していくという、当たり前のことを、可燃性の強い今日的問題のなかで語っているのに素直に魅了される。こういうことは書かれている/話されている表象から感じる以上に難しいことだと思う。とてもいいと思う。

『ゲンロン』のおかげでプラープダー・ユンのようなタイの作家を知れたのは嬉しいことだった。もっと読むことができるといい。

スピノザがあちこちに出てきた。同じくスピノザについて書いた國分功一郎『中動態の世界』の講読ゼミをこのタイミングでやれたのはとても幸運だ。幸運だと思えるということはギリギリだということだ。言い換えれば半分弱は失敗している。ゼミは来月最終回。

涼しくなると寂しい気分とともにたぶんもっと本を読みたくなる。


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■近々開催のまるネコ堂の催し
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隔週の水曜午前、月一回の土曜午後
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大谷美緒主催
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August 24, 2020

【739】8月23日の芸術祭ミーティング。

 第0.5回、第1回、まるネコ堂芸術祭に向けての初めての出展者オンラインミーティング。8人。

 「漠然とやりたいと思っていることがあって、それはおそらく芸術というのが最も近い分野だと思われることだけど、いざやろうとするとどうやってやればいいのかわからなかった。だからこの芸術祭のコンセプトが自分にぴったりだと思った」というようなことを出展者の一人が話していて、あぁ、そういう意味では、僕自身もそうだと思った。そう言葉にされて、そう思った。

 僕も、やりたいと思うようなことがおそらく芸術に該当するだろうと思っていたけれど、それをどうやればいいのかわからなかったから、芸術祭をやることにしたのかもしれない。

 あと付け意外の何者でもないけれど。

 それで思い出したのだけど、僕には、この芸術祭に関してずっとついて回っている自分への疑問がある。僕は、芸術を飛び越して、芸術祭をやろうとしているのではないか。一旦飛び越しておいてから、逆行して芸術をしようとしているのではないか。芸術祭をやるのだから、そこには芸術があるということになるのだ、という逆算的なことをやろうとしているのではないか。

 この疑問は不安も引き起こす。こういうやり方には、何か大きな落とし穴があるのではないか。

 もちろん、これは僕個人の実行委員としての疑問や不安であって、他の実行委員がそうだというわけではない。芸術をやり、その芸術をもって芸術祭に向かうという順行の人もいる。人もいるどころか僕以外はそうだろう。

 つまり、僕の問題として、僕自身が自分を「芸術をやる人」にできていないということだ。

 ともあれ、いや、ということは、僕の個人的な実行委員としての仕事の一つはそこにある。この、ひょっとしたら大きく空いているかもしれない落とし穴をじっと見つめるということだ。空いてないかもしれないし、空いているかもしれない。あるいは、すでに落ちているかもしれない。穴の底で何かを見つけるかもしれない。

 これも一つの楽しみだ。



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August 23, 2020

【738】8月19日の文章筋トレ。

 開催日からだいぶ経ってしまった。参加者はカエルさん、みどりさんと僕。10分と50分をやる。

 50分のあと、僕の文章についての質問からの話でいろいろとしゃべった。喋った内容はともかく、気がつくと終了予定時間を1時間もオーバーしている。もともと時間管理は苦手なのだけど、最近は少し気にかけていた。というか、文章筋トレの進行に関して、ほとんどこだわっていないのだけど、時間だけはこだわったほうがいいのではと思って気にしていたので、さすがにちょっと対策を考えたほうがいいかもしれない。

 文章に関して、あるいは、読むことや書くことに関しての話というのは、容易に当人の全体性に拡張しうる。「文章のこと」に限定できない。文章というのが、そういう輪郭をもった何かとして限定できない。文章に限らず「表現」というものはそうだと思う。だから、文章に関してや読むこと、書くことに関しての話というのは、どこまでも延長されうる。

 時間管理が難しいのは、僕の能力もあるけれど、そもそもそういうものだからでもある。そのために「文章筋トレ」という名称にして、時間制限して、タイマーを使っていることの意味があるのだと思う。だから、やはり時間ぐらいは気にしないといけない。時間ぐらいしか気にする必要はないとも言える。どうしようかな。


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August 21, 2020

【737】不安は失くならない。

不安というのはカビのようなものだ。

有害なカビが繁殖したときに効果的な対処は、カビそのものの除去よりも、カビが繁殖しにくくなるような状況を作ることだ。風を通したり、日に当てたりする。そのためにそのあたりを少し掃除する。ものを動かしたりする。比較的小さな規模であればそれぐらいでいい。ずっと長く放置されていて、容易には手がつけられなくなっていたら、少しずつものを運び出して、大掃除をする。できれば、穏やかに少しずつやっていくのがいいが、場合によっては腕まくりをしたほうがいいかもしれない。

逆に取るべきでない対応は、カビの方から見て都合の良いことだ。何か他のもので蓋をして風通しや日当たりを悪くするようなことだ。あるいは、見て見ぬ振りをしてそのままにしておくことだ。カビはさらに大きくなっていく。他のもので蓋をすると、そこは立ち入ることができなくなる。見て見ぬ振りをするということは、そのあたりの視界を自ら塞ぐことになる。

それを続けているとどうなるか。思いっきり首を捻じ曲げてそっちを見ないようにして、あさっての方向を見ながら、あちこちにものが転がっているような場所を進む障害物競走を強いられていく。視野は狭く障害物がごろごろある。不安に駆られたときの行動や表出は、このいびつな視野と自己内立ち入り禁止区域の多さに由来するもので、およそどんなことでも起こりうる。頻出するパターンはあるにはあるが、それだけを補足していてもとらえきれない。外部で観測されるのは、どんなことでも起こりうる特殊な状況のなかから無理やりひねり出されたものだ。そういったものへの都度的な対応は破綻する。破綻し座礁した対応そのものにも、またカビは生える。カビは強靭だ。

ところで、カビは必ずしも有害とは限らない。有益なものもある。同じように、不安も、必ずしも有害とは限らない。不安は、有益とすら言える別のものでもある。

有害なカビが繁殖しないようにすることと、発酵食品を上手く育てることは、同じ領域にある、というよりも同じことだと言ってもいい。発酵食品というのは、いろいろ手をかけて、比較的長い時間、いろいろな段階を経ながらできあがっていくもののことだ。温度や湿度など周囲の状況も影響する。うまくいくこともあれば、失敗することもある。前回上手くいったからそのとおりにやったつもりでも、今度は失敗することもある。

発酵食品を作るように、自分にとって素敵なことをゆっくりと少しずつ変化させてなしていくことと、有害なカビが大きくなりすぎないように、自分にとって不安なことを小さくとどめていくことは、実は同じことだ。不安と素敵なことは同じ場所にあると言ってもいい。それらの胞子は空気中に常に漂っている。

不安を外部から取り除こうとする思想はだから、カビと一緒に発酵食品も取り除いてしまう。自分のカビの対処を他人に任せるのはおすすめしない。ゆっくりと自分で風を通して日に当てる。


August 19, 2020

【736】興味を失うということ。

 子供が絵本が好きで、毎日何度も読み聞かせをせがまれる。たぶん、多くの子供が絵本が好きだし、おそらく僕も絵本が好きだった。毎日何冊もあるいは同じ本を何度も読んだ。それが何年か続く。

 しかし不思議なことに、大人になってみると多くの人は絵本がそれほど好きではなくなっている。毎日読んだりしない。少なくとも子供が持っている絵本に対する強烈な情熱を保持していない。そういう人がほとんどだ。僕もそうだ。いつの時点でか、絵本から離れた。

 なぜ絵本から離れたのか。興味がなくなった。他のことに関心が移った。ということなのだけど、その「興味がなくなった」「関心が移った」ということは、一体どういうことなのだろう。絵本が嫌いになったわけではない。今でも絵本に対してある種の憧憬を持っている。子供の頃の絵本を読んだり読んでもらったりした経験そのものの記憶が劣化したり反転したりしているわけではない。だからたぶん、今でも「絵本は好き」なまま、「興味がなくなった」り「関心が移った」りしている。

 どんなに絵本が好きでもすべての絵本を読むことはできない。だから「絵本に興味を失う」という現象は、好きである絵本のすべてを経験する前に起こる。一体どうやって好きなものへの興味を失うのだろう。その時何が起こっているのだろうか。

 何か「興醒め」するような出来事が外部的に発生したということがまず考えられる。そういうこともあるだろう。しかし、この場合は「興味を失った」という「興醒め」のシーンを明確に思い起こせるはずだ。あるいは、それを忘却したとしても、なにかそういうある衝撃を持った出来事があったという痕跡ぐらいは残る。しかし、すべてがそれで説明がつくような気がしない。むしろ、なんとなくいつのまにか「興味を失う」ことのほうが多いように思える。

 ここまで「興味を失う」というフレーズを維持して話を進めてきた。「何かが起こることで興味を失う」という前提でその何かを見ようとしてきた。が、おそらくそうではなくて、どちらかというと「興味を維持する」ことのほうに何かがある。「なにかが起こることで興味が失われない」のではないか。

 興味というのは、一度生じればそのまま放置していても維持されるものではない。炎のようなもので、燃料や酸素が供給されなければ消える。「熱中」していたものが「冷める」。「興醒め」はもともとそういう言葉だ。

 なにかの外部的な要因で燃料や酸素の供給が途絶えることもあるが、燃料や酸素を使い尽くしてしまうということもある。それ以上にもっとありえるのが、燃料や酸素が、燃え盛っている炎に対して十分な供給量を確保できなくなりそうだ、このままだと近いうちになくなってしまうという予感や予想がたったときに、薪をくべたり、酸素を送ったりすることをやめてしまう。つまりそこにある薪や酸素の量の見込みが立ってしまったとき、興味を失う。こう考えれば、興味を失うのは、実はとても当たり前なことだと思う。やればやるほど興味を失いやすい。早く燃料が尽きる。

 むしろ特殊なのは、興味という炎がなぜ消えるかではなく、いつまでたっても炎が消えないことがあるということのほうだ。そんなことがなぜ起こるのか。どうやって起こっているのか。

 一つの筋道を考えることができる。薪の比喩で言えば、盛大にボイラーに木片をくべながら、同時に植林するようなことが起こっていることになる。これは消費から生産への立場の転換で、つまり、大人になっても絵本が好きで毎日絵本を読んでいる人のいくらかが当てはまるのだろうけれど、絵本作家や絵本を作る側に回ることだ。

これで解決されるかのように思える。

 が、しかし当然のことながら、絵本作りというものへの興味自体もまた何かしらによって維持されなければならないことになる。そうやって立場を変えていくこと、例えば職掌を大きくしていくことや、仕事の規模を大きくすることで、それは実現できるかもしれないけれど、根本的には同じことを反復している。あとは人間の寿命との兼ね合いの問題で、死ぬまで絶やさず燃やし続けられるかということになる。

 でも、と思う。そういうことなのだろうか。どこか釈然としないのは、たぶん比喩の限界に近づいているからで、炎や燃料の比喩ではこういう結末になってしまうということだと思う。

 だから、炎の比喩を棄却して、もう一度もとに戻る。

 一気に書けると思えないが、なるべく書くと、興味というのが起こるのは、それそのものに対するとらえ方が全体的に変化してしまうということなのではないか。そういうものだと思っていたことが、実はそうではないかもしれないというときに興味は起こる。この、それまで思っていたことが、どうやらそもそもそうではなかったという前提の喪失、遡及的な組み換えのようなことが、それ全体を再活性させる。

 絵本が好きでたくさん読む。ときどき、あれ?絵本って実はこういうものだったのか、いままで絵本だと思って読んでいたあの経験はいったいなんだったのか、ということが起こる。もちろん、こんなことがいつも起こるわけではない。しかし、時々起こる。時々で十分だ。

 だから差異の問題ではない。絵本Aと絵本Bの差異が興味を掻き立てるということではない。これだといずれ、いずれというのは、比較的短期間に、思った以上に早く、「燃え尽きる」。そうではなく、絵本Bを読んだら、それまで読んできた絵本Aが何か別の絵本やあるいは絵本じゃないものになってしまう。そういうようなことではないか。それそのものを暗黙に規定していた前提が変わってしまうようなことだ。この場合は、絵本Aと絵本Bの差異だけが焦点化されるわけではなく、絵本Bがその全体をもって、絵本というものの前提を変えてしまったかのような経験をするかどうかが問題となる。こういう経験が時々起これば、興味は失わない。

 そんなに大それたことなのかと思うが、それぐらい大それたことなのだと思う。それぐらい僕らは物事への興味を失う。興味を失わないでいることが難しい。失った興味を別の何かに新しく乗り移ることで補おうとする。そしてやがてまた失う。また乗り移る。また失う。そういう流れのなかにある。これを否定することはできない。その必要もない。たいがいはそうなのだし、それでいい。

 口癖のように「おもしろい」という言葉をよく僕は使う。人より多く使う分、その言葉に対して、何かしらのことを言わなくてはと思う勝手な自負がある。誰からも頼まれていない。幸いなことに僕はまだ書くことや読むことへの興味を失っていない。おもしろい。それらは時々、それら自身の前提を変えてみせる。今もそうだ。いつまでもそうなのかはわからない。そうでなくならないようにするには、今もそうするぐらいしか思い当たらない。読むことや書くことがおもしろいということが起こっている。幸いだ。

August 14, 2020

【735】覚えていられないが、思い出さないわけではない。

時々自分の文章が心臓に悪い。書くときでは無い。読むときだ。最近の文だ。自分のだ。以前のでは無い。ここ一年ほどだ。僕でない人が読むとどうなるのかはわからない。どうなるのだ。自分で読んで心臓に悪い。望んだのか。ドキドキする。何を書いたか思い出せない。読み進めている間、思い出せない。簡単でない。コーヒーが無い。コップが空だ。机の上だ。見なくてもわかる。曇り空は時間がわからない。目が痛い。モニターが明る過ぎる。違う、部屋が暗いのだ。繋がりのない事柄だ。外も暗い。交差する事柄だ。僕の認識はいつも繋がりがない。因果の射程が短いのだ。覚えていられない。別々の物語が進行している。雑誌に載っている連載は複数あるが、同じ号の別の記事とは因果がない。それを続けて読む。シネコンで立て続けに三つ映画を観た。二十代だ。壁が赤い。



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August 12, 2020

【734】8月11日の夢。

 ちょっとややこしい夢を見た。面白い夢だった。書き残しておこうと思う。

 僕の実在の友人がほぼ当人そのものとして登場する。仮にSとしておく。Sと二人で話をしている。薄暗い居酒屋のような飲み屋のカウンター席だ。Sが今度イベントをやるという。場所を借りて二日間のイベントらしい。映画の上映会かライブ?のようだ。その会場のイメージは、僕が昔、何度か足を運んだり自分でも上映会や音楽ライブのイベントをやったことがある中崎町の古い建物に重なる。

 どんなイベントなのかをSはその場で案内文をメールしてくれる。僕はそれをざっと読む。本来は二日間のイベントなのだけど、何らかの理由(コロナ?悪天候?)で開催できなかった場合には、一日に短縮して別企画をやることになっている。こちらの企画は軽めの企画になっていて、トークショーらしい。テーマ的には同じで、規模を縮小した企画だ。トークするのはSで、どんな内容を話すのか、その触りの部分をYouTubeにアップしてある。案内文にURLがある。僕はそのYouTube動画を見る。内容は思い出せないが、僕の興味にも合う面白そうなことを話している。僕はなにかコメントしたくなって、その場で、Sにメールを書く。すぐそばにS本人がいるのに直接話さずにメールしている理由はよくわからない。それに対してSからの返信が来る。そうして、メールで何度かやりとりをする。かなり充実した内容のやり取りで、いろいろと考えることができて有意義だ。ただ、なにかちょっとした違和感も感じている。相手はSなのにSではないように思うことが何度かある。メールのやり取りが一段落したときに、隣にいるSに、どうしてちょっとSじゃないような感じの返事をするのかと尋ねる。

 「えっ?」とSが答える。
 「え、じゃなくて、なんかS、変じゃない?」というようなことを僕が言う。
 「それ、誰にメールしてますか?」とS。
 「えっ?」僕は血の気が引く。

 慌ててアドレスを確認するとSのアドレスではない。僕はSだと思って別人とやり取りしていた。しかも、おそらく会ったことがない人だ。もう一度、Sの案内をきちんと読み直す。その人物はSとは別の人で、ゲストとしてそのトークショーに登壇することになっている。大学の先生か研究者かそういった感じの人だ。

 しかし、YouTubeの動画はSに見える。正確に言えば、Sがその手の人のコスプレをしているように見える。髭がSと違う。別人と言われると別人にも思える。

 ともかく、僕は大変失礼なことをしてしまったと、慌てて謝罪のメールを送る。Sだと思って冗談を交えたかなりラフな書き方をしていたからだ。すると、隣のSが、

 「でも、それ僕なんですけどね」と言う。

 僕は、どういうことかと問う。

 「だから、それも僕です」とSは平然と言う。

 本当に焦っていた僕は、とても安心したと同時にSに「本当に焦ったよ」というようなことを強い調子で言う。正直かなりムカついていたが、しばらく話をしているうちにそのムカつきも収まってくる。そして、Sと別れる。

 店から出てしばらく一人で夜の道を歩いているとSからメッセージが来る。

 「さっきは騙してしまってごめんなさい。本気にすると思わなかったので」というような内容だ。

 このあたりで僕は目が覚める。このあたりというのは、目が覚めたあとも引き続き夢の中にいる感じで、このことをシームレスに考え続けていた。夢と現実の境があとからでは思い出せない。いつ目が覚めたのか判断できない。Sのメッセージが、夢の中で届いたのか、目が覚めてからそれが届いたかのように思ったのか、わからない。もし、目が覚めてからだとしたら、それは夢よりももっと直接的な僕の願望としてメッセージを欲しがっていたということだろう。いずれにせよ、僕は、何にムカついていたのかをSのメッセージに返信するつもりで、次のように考えた。目が覚めてからだ。

 騙されていたことにムカついているかというと、必ずしもそうではない。そういう面もあるにはあるけれど、むしろ本心は別にある。僕は、ある人に対して、別人だと思いこんでメールのやり取りをした。肩書的にしっかり書いてあったかどうかはわからないが、大学の先生なのか研究者か、そういった人だということになっている。その人に対して、僕は、そういった見かけはデタラメで、よく知っている友人だと思って、対応をした。だからもし、夢の中のSが僕の友人だと言うだけでなく、実際にそういった研究活動をしているのだとしたら、Sが謝る必要はない。僕の友人が、別の名前で別の活動をしているということはあり得るし、そうだとしたら、僕は何も「騙されて」いないからだ。同一人物であるかどうかは、僕の観点ではそれほど重大なことではない。むしろ問題は、その人が持っているだろう専門性や知識、知性といったものへの敬意を僕が欠いていたことだ。肩書の有無の問題でもない。一人二役だろうが、ちょっと冗談まじりの軽いノリの企画であろうが、イベントでトークショーをやろうと言うぐらいなのだから、それなりの関心や、それについて考えたり思ったりしたことを持ち合わせているはずだ。そういうものへの敬意が僕には欠けていた。事実、メールでのやり取りは充実していて有意義だった。そのことについて多くの熱量が投下されていなければ、有意義なやり取りにはならなかっただろう。たくさん考えていたからそうなった。トークショーのテーマに関して、僕がメールしていた相手には十分に専門性があったのだ。最初からそのつもりでやり取りをしていれば僕は焦ることはなかった。それが友人であろうと別人であろうと。僕は、僕の失礼さにムカついていた。Sへのムカつきがあるとしたら、僕が焦っているのを横目に見ながら「平然としていた」ということぐらいだ。

 面白い夢だと思ったので、布団の中で一度内容をできるだけ思い起こした。そうしているうちに目が冴えてきたので、これは残しておこうとパソコンを開いてここまで入力した。入力した内容を読むと、僕のムカつきに過剰に焦点があたってしまっているが、思い返すとそれほどのムカつきではなかった。それよりも全体に僕はとても楽しく過ごしていたし、今でも楽しい。久しぶりに薄暗い居酒屋に行けた。そこで二人で話をしていた。今は2020年8月11日の午前2時17分だ。



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【733】もうすぐ締め切り。まるネコ堂芸術祭出展者募集。

 なにかぼんやりとでもやってみたいようなこと、それが実現したらいいなぁというようなイメージは一般的に夢と言われている。はっきりとした夢もあれば、はっきりしない夢もある。はっきりしているからといって実現しやすいかといえばそうでもないし、ぼんやりしているからしにくいというわけでもない。

何を書こうと思っているのかを事後的に浮かび上がらせようと思って書いているのだけれど、そういう夢というものが、そもそも広いものであって、濃淡や高低がある。夢というものがある場所自体が、単一の場所ではなくて、様々な様相が重なり合っている。

どうやって行けばいいのかわからないという以前に、そこがどんなところかわからない。どこへ行けばいいのかわからない。どこを通ればいいのかわからない。とりいそぎどこに向かえばいいのかもわからない。地図もコンパスもない。

そもそも、存在するのかすらわからない。

そういう場所にまつわる一連の試行錯誤を楽しんだり苦労したり挫折したり面白がったりすることをやりたいと思って、まるネコ堂芸術祭という、取り急ぎ人が集まれるだけの空き地をつくりました。

誰かが何かをやっている(らしい)ということが、自分に何かを引き起こすかもしれないという可能性の場所です。

まるネコ堂芸術祭出展者募集
8月22日締め切りです。



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August 10, 2020

【732】8月9日の小説部部会。

  二ヶ月おきの頻度で続いている小説部の部会。部員は5人。部と言っても部らしい活動はこの部会のみ。前回の部会以降の近況報告をそれぞれの部員がして、あとは自由に話す。13時半から夕方まで。ここ何回かはZOOMでやっている。

 それぞれがそれぞれにやっていることを時々集まって報告し合うという形式で、どれほどモチベーションが維持できるものなのかと僕自身も半信半疑なのだけど、毎回驚くほどにそれぞれが充実した活動をしている。錯覚かもしれない。錯覚だとなにか困るかといえば困らない。

 小説部と言いながら、小説ではないものを書いていたり、それどころか絵を描いている人もいるのだけど、それがなにか範疇外かというとそういう雰囲気はなくて、他の部員もそういうものだと思って聞いている。と思う。

 何をもって部活動なのかという問に対して予め挑戦していると言ってもいいようなところがあるのだけれど、僕も含めて、部員にはそんな挑戦をしている自覚はない。

 いつまで続くか本当にわからないが、こんなことをやっているとそのうち何かしらの目に見える成果が出てしまうのではないかと、おそるおそる期待している。

 次回の部会日程を決定した。次回の日程ぐらいしか決めることはない。

 万が一、こんな小説部に興味のある方がいれば大谷までご連絡ください。


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August 9, 2020

【731】8月8日の文章筋トレ。

 常連メンバー5人と初参加の方が一人。10分と60分をやる。

 初参加の人がいると僕自身、僕が持っている前提を再確認することになる。

 文章筋トレは、参加した人それぞれが自分なりに試行錯誤する場所だ。その人なりの試行をし、それを他の人がどのように受け取ったのかを返す。他の人の受け取り方自体もまたその人なりの試行である。それを例えば6人でやる。これだけで相当に複雑で、十分に予測不能になる。

 が、事実はさらに複雑で、自分の試行に対して、自分自身がすでに内的に返答してしまうし、他人の文章に対する自分の体験にすら、自分ですでに返答してしまう。感想を言うというのはそのあとにようやくやってくるフェイズだ。

 言い換えると、文章を書くということ自体がすでに相当な距離を進んだ先にようやくなされていることで「見えているものをそのまま主観を入れずに書き出しました」といった書き方ですら十分にそうだ。同じように、ある文章を読んだときに自分に生じていることをどのように捉えるかということも、もうすでに相当な距離を進んでしまっているし、その言語的表明ともなればさらに倍は、進んでしまう。

 もしも、誰かが文章筋トレという場における文章の価値を一義的に定義したり、端的に、目指すべき見本を提示することができたとしたら、この複雑さは大きく減衰できるかもしれない。ただ、それは現状ではできていないし、そもそもできることなのかどうかも判断できない。少なくとも僕には今でもできない。

 文章筋トレにおいては、文章を書いたり読んだりするということへの前提をそもそも共有していない。書くとはどういうことか、読むとはどういうことか、それらがそれぞれの人の領域にあるということの「方に」重心をもたせている場所だ。それらは表出された複数の人の言葉たちによって事後的、追加的、集合的、都度的に成立していく。それはだからやはり「前提」ではないのだけれど、一つの問題があるとすれば、そう言い得るのは最初からその場にいたメンバーだけで、途中から参加した場合は、その時点での途中経過にすぎない何かを前提として受け取る。このことに対して、改めてそういう前提はない、あるいは、一時的な状況だと説明すべきなのだけれど、この説明自体がなにかの前提の上になされていると受け取られる。ここが難しい。

 「ルールはありません。自由にしてください。」ということほど強大なルールになりうるものはないし、前提の完全かつ恣意的な目隠しにもなりうる。こういうことに自覚的でないといけないことを、初めての人が来るとその都度、僕は思う。そして、その都度、その時点において、不自由な説明をどうにかする。



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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●12月15日から21日:言葉の表出、冬合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/05/2020.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一回の土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●月一回:『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●まるネコ堂芸術祭・出展者募集
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_84.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
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●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●雑誌『言語7』発行
https://gengoweb.jimdofree.com/


August 6, 2020

【730】想像以上に予想通り。

5月29日にこのエントリーを書いて以来、香港を取り巻く状況は「想像以上に予想通り」に進んだ。当時は、多少の紆余曲折も想定されると、日本語で思っていた。事実は最短距離を通っている。少しこのことを考える。5月29日は僕がこの記事を読んだ日だ。あれから二ヶ月と少し経った。

メモ
香港警察、海外の民主活動家6人を指名手配 国安法違反の疑い(bbc)

August 5, 2020

【729】8月5日の文章筋トレ。

蝉が鳴いている中、カエルさん、みどりさんがzoom、美緒と僕がまるネコ堂で、10分と60分をやる。

そう言えば前回は、一つも書かず話してばかりいた。その反動なのかどうなのか、今回は殆ど話らしい話をせずに取り掛かった。

文章筋トレをどのようにやるのかということ自体にも試行錯誤があって、あまり前例に固執しないようにはしている。というよりも、前例に固執できるほど、僕の記憶力は良くないのかもしれない。いろんなことがあってほしいとは思っている。

今日は今日で面白かった。カエルさんの言う通り、終わる頃には蝉は一つも鳴かなくなっていた。

8月8日土曜日開催はおかげさまで満席となりました。

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August 3, 2020

【728】空き地。言葉の表出、夏合宿2020が終わった。


合宿のはじまりにあたって、僕が少し話をする時間があった。久しぶりに空き地の話をした。

空き地はただの場所だ。何かでない場所だ。

誰でも入れる。いつでも入れる。いつでも立ち去れる。いつまででも居られる。何かをしようと思えばできる。何かを持ち込むこともできる。持ち込んだ何かで何かを作ることもできる。使い終われば持ち出される。何もしないでも居られる。入らないでも居られる。

空き地は未然だ。可能性そのもので、最大の全面的肯定であるただの場所だ。消費されることが無い。劣化しない。空き地が死ぬのはむしろ何かが成ったときだ。僕は、空き地の死は歓迎されて欲しいと思っている。何かが成るという一つの出来事は喜ばしいことだと思っている。

可能性が死ぬのだから、それは希望にあってほしいということだと思う。可能性の死自体がそもそも希望だ。こういうことを書くと、僕にはたぶん死を楽観的にとらえる意識があるような気がしてくる。悲しいことや寂しいことが幸せではないとは言えない。

出来事はいつも、一つずつしかない。まだ書かれていない白い場所に何かが一つ書かれる。空き地はいつもある。大抵の時間は誰も居ない。蝉が鳴いている。月が出る。