空き地はただの場所だ。何かでない場所だ。
誰でも入れる。いつでも入れる。いつでも立ち去れる。いつまででも居られる。何かをしようと思えばできる。何かを持ち込むこともできる。持ち込んだ何かで何かを作ることもできる。使い終われば持ち出される。何もしないでも居られる。入らないでも居られる。
空き地は未然だ。可能性そのもので、最大の全面的肯定であるただの場所だ。消費されることが無い。劣化しない。空き地が死ぬのはむしろ何かが成ったときだ。僕は、空き地の死は歓迎されて欲しいと思っている。何かが成るという一つの出来事は喜ばしいことだと思っている。
可能性が死ぬのだから、それは希望にあってほしいということだと思う。可能性の死自体がそもそも希望だ。こういうことを書くと、僕にはたぶん死を楽観的にとらえる意識があるような気がしてくる。悲しいことや寂しいことが幸せではないとは言えない。
出来事はいつも、一つずつしかない。まだ書かれていない白い場所に何かが一つ書かれる。空き地はいつもある。大抵の時間は誰も居ない。蝉が鳴いている。月が出る。