常連メンバー5人と初参加の方が一人。10分と60分をやる。
初参加の人がいると僕自身、僕が持っている前提を再確認することになる。
文章筋トレは、参加した人それぞれが自分なりに試行錯誤する場所だ。その人なりの試行をし、それを他の人がどのように受け取ったのかを返す。他の人の受け取り方自体もまたその人なりの試行である。それを例えば6人でやる。これだけで相当に複雑で、十分に予測不能になる。
が、事実はさらに複雑で、自分の試行に対して、自分自身がすでに内的に返答してしまうし、他人の文章に対する自分の体験にすら、自分ですでに返答してしまう。感想を言うというのはそのあとにようやくやってくるフェイズだ。
言い換えると、文章を書くということ自体がすでに相当な距離を進んだ先にようやくなされていることで「見えているものをそのまま主観を入れずに書き出しました」といった書き方ですら十分にそうだ。同じように、ある文章を読んだときに自分に生じていることをどのように捉えるかということも、もうすでに相当な距離を進んでしまっているし、その言語的表明ともなればさらに倍は、進んでしまう。
もしも、誰かが文章筋トレという場における文章の価値を一義的に定義したり、端的に、目指すべき見本を提示することができたとしたら、この複雑さは大きく減衰できるかもしれない。ただ、それは現状ではできていないし、そもそもできることなのかどうかも判断できない。少なくとも僕には今でもできない。
文章筋トレにおいては、文章を書いたり読んだりするということへの前提をそもそも共有していない。書くとはどういうことか、読むとはどういうことか、それらがそれぞれの人の領域にあるということの「方に」重心をもたせている場所だ。それらは表出された複数の人の言葉たちによって事後的、追加的、集合的、都度的に成立していく。それはだからやはり「前提」ではないのだけれど、一つの問題があるとすれば、そう言い得るのは最初からその場にいたメンバーだけで、途中から参加した場合は、その時点での途中経過にすぎない何かを前提として受け取る。このことに対して、改めてそういう前提はない、あるいは、一時的な状況だと説明すべきなのだけれど、この説明自体がなにかの前提の上になされていると受け取られる。ここが難しい。
「ルールはありません。自由にしてください。」ということほど強大なルールになりうるものはないし、前提の完全かつ恣意的な目隠しにもなりうる。こういうことに自覚的でないといけないことを、初めての人が来るとその都度、僕は思う。そして、その都度、その時点において、不自由な説明をどうにかする。
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大谷美緒主催
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