January 31, 2015

【067】コートは解決した。

まったくおしゃれな感じがしないのもいい。
冬場、毎日着ているのがバブアーのオイルドコート。オイルが綿の生地に染み込ませてあって、防水、防風効果が高く、丈夫。そして重い。

以前はオイルのにおいがきつく、電車に乗れるコートではなかったらしいけれど、最近のオイルはほとんどにおわないから、普通のコートのように着ている。

もともとは狩猟や乗馬をする人が着ていたらしく、ダウンジャケットやフリースのような暖かな快適さを求めるというよりは、雨や雪の屋外で風にさらされて何時間も耐えるような「命を守る」感じが気に入っている。

新品は結構な値段がするが、古着屋で1/3ぐらいで買った。あちこち擦り切れて穴が空いているけれど、布が二重になっていて、まだまだ使える。たぶん、死ぬまで使える。

2シーズンに1回ぐらいオイルを入れなおしてメンテナンスするのだけど、自分で簡単にできる。夏場にやると作業しやすい。

これを着て帽子をかぶれば、多少の雨は傘をささなくても大丈夫。傘が嫌いなのでとても快適。タオルを持って行ってあとで拭けばいい。襟を立てて顎のところのホックを止めると首周りも暖かでマフラーがいらない。マフラーはすぐに失くすので、これも快適。

何から何まで僕好みなコート。

January 30, 2015

【066】今や考えすぎずに生きるなんて時代遅れである。

空を撮ろうとしたら、思い切り手前にピントが合った。
もっと手前には眼球があって、本当はそれしか見えていない。
前回の続き。

今という時の特徴は、無根拠、無目的が生身の人間に露骨に迫ってくることである。だから、ごくノーマルに今を生きようとしても「なぜ居るのか、なぜ生きるのか」あるいは「なぜ死なないのか」を自分自身から常に問われてしまう。

毎日、やらねばならないことが淡々と通り過ぎて行き、気が付くと死が目の前に迫っているという幸せな時代は、近代の成立とともにフェードアウトしていった。今、もし、そんなふうに過ごしているとしたら、局所的に前近代が成立している場所か、今という時から目を背けているかだ。

無根拠、無目的が突きつけられた状況で生きていくためには、身の回りにあふれた物事の一つ一つを一度分解してから、自分自身の「居場所」からの距離が最短になるように再構築していくことで、それこそが今という時に唯一面白いことであり、かろうじて生きていく糧になる。

考えすぎず生きるほうがいいという人は、僕には時代遅れに見える。無根拠、無目的という虚無を真正面に捉えて、一歩一歩それぞれの道を一人で歩いて行く人が今という時を生きる人であり、考え続ける人である。

人類はようやくここまでやってきた。

January 29, 2015

【065】現代における「新しい物」は少ない要素で成立する。反ブリコラージュ論。

革は厚みが違うだけで特性が大きくかわる。
「深さ」のある素材。
今や物だけでなく材料の種類もあふれている。必要な用途に合わせて「だったら、ここにあるこれを追加すればいい」とその都度都合よく要素を追加していくことは、機能としての物体を成立させるのに、ものすごく安易な方法で、そういう「寄せ集め」という意味で「ブリコラージュ」は好きになれない。

もう大概のことは手段さえ選ばなければ実現するのだから、実現すること自体に新しさはやせ細っている。少ない要素で振り絞るようにして現れるという必然性が、現代においては「新しい物」として見えてくる。

要素が少なければ少ないほど、その限られた要素一つ一つが持つ特性を引き出さなければ何かを成立させることはできない。その特性は、一つ一つの要素の「深さ」から見つけ出してくる。それだけの深さを持つ「要素」を選びとることこそが「新しさ」の断面になる。

要素が少ないからといってその意味を「物事を簡単に考える」とか「シンプルに考える」と捉えるのは間違いで、要素が少ないほど物事を見ることに対する解像度が求められる。要素を減らすために、普通なら考えなくても良いことまで考えなくてはならない。これを「考えすぎ」と片付けてしまう人にとって、現代はつまらない時代である。

January 28, 2015

【064】「かゆい空」と言葉はぷにょぷにょしたもので常に再構築され続けているネットワーク。

空の空き地、つまり空き空。
ある言葉単体は、水風船のようにふにゅふにゅとしていて、よく化粧水なんかのCMで、ぷるぷるした赤ちゃんのような肌に細胞がよみがえります、という説明で使われるイメージ図のような感じで、その言葉のイメージは触ると形を変える。

このふにゅふにゅぷるぷるしたの言葉単体を触っているのが気持ちよくて、いつまでも触っていてしまう。

「大谷」という実在する人をイメージさせる語のそばに持ってくる語として、「役に立つ」と「役に立たない」を比べると、当然「役に立つ」の方が置きやすいから、通常「大谷は役に立つ」というならびに落ちつきやすい。

しかし、人というものを「役に立つ」ものと捉えること自体に嫌な感じがあるから、むしろ「大谷は役立たず」という並びの方に、その並びの隙間からのぞける奥にあるものへの希望が生まれる。「大谷は役に立つ」という並びの奥にはどろりとしたものが見えそうになる。

こうやって言葉を遊んでいると、人にもし「大谷は役立たず」と言われた時にとても楽しくなるだろうと予想がついてきて、とういうことは僕も誰かに対して「役立たず」という言葉を使ってみたくなる。

言葉は単数ではなく、すでに言葉どうしのネットワークというもので、「空」という言葉を思い描くとその近くには「広い」「飛ぶ」「雲」「ふわふわ」といった言葉の群れが現れる。ふつう「かゆい」「ねじる」「金塊」「ちくちく」といった言葉は近くに来ない。

しかし、このネットワークは、固く結び合わされているわけではなく、ゴムのようにぶにょぶにょと伸びる素材でゆるく結ばれていて伸びる。それをびょーっと伸ばすと隙間ができて、そこにもう一つ新たな言葉が入ったりする。

いやもっとこう、卵の黄身をボールに落としていって、3つの黄身が並んでいるところに4つ目の黄身が入ると4つ目が3つを押しのけるようにして間にするりとはいって、3つは少しずつ位置を変えて4つがそれなりにおさまる。ボールを傾けたり、ゆすったりすると、それだけで位置関係が変わる。こんなふうにゆるゆるとお互いが触れ合っているような感じで言葉のネットワークはある。

だからきっと、何かの拍子に「空」のとなりに「かゆい」が来るかもしれなくて、それがしっくりくるような状況があるかもしれないと考えてみたりする。そうするとだんだんその並びが不自然でなく馴染んでいって、「かゆい空」とか「空がかゆい」とかそういう言葉が徐々にネットワークに組み込まれていく。

言い換えれば、ぷにょぷにょが並んでいるところに、今まではあんまり隣り合わなかったかもしれないような別のぷにょぷにょが、もともとあったぷにょぷにょが形を変えることで今まであった並びのどこかにゆるみができて、そこにつるんとおさまるようなことが、僕にとっての言語化である。

January 23, 2015

【063】持ち寄り食会における精神性。

空き地は不意に現れるけれど、
ずっと以前からそこにある。
持ち寄り食会とは、

まず、自分がほしい物を買うために自分がほしい物を知らねばならない。
他人のためにではない。
他人という自分の外にあるものを自分から引き剥がさねばならない。

しかし、自分というものをその瞬間決定付けるのは、自分の外である。
様々な外によってその時の自分が決定されるからである。
つまり、一度、外を引き剥がした自分が改めて外に触れるのである。

さらに、その外と触れていることによって生じている自分を改めて自分とし、その新たな自分の内に向かわなければ、自分がほしい物を知ることはできない。

そのためには、自らの欲をつかんでおかねばならない。欲を知らずに食を会わせることはできない。体の調子を整えておかねばならないのはそのためである。

その上で、その外と触れることによって生じている自分がほしい物が、他人の存在する場に落とされる時、その物を通して自分というもの全体が他人と出会うのである。

このように、自分の内と外とを行き来することによって、幾度と無く塗り替わる自分を見続け、その自分として他人と出会うのである。

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