May 26, 2016

【344】庭で髪を切る。セルフカットが上達してきた。

髪がうっとおしくなってきたので、思い立って切る。自分で切るようになって3回目ぐらい。たいていのことは3回ぐらいやれば、理想の5割か6割ぐらいのことはできるようになるものである。

庭に鏡を出して、椅子を置いて準備完了。前回までは櫛を駆使して、あ、櫛を駆使してね、やっていたのだけど、切る部分が櫛で揃っても、ハサミの位置決めの精度がそれに見合わないので、結局アバウトにしか切れない。だから今回はもう櫛は使わず左手で髪の毛を掴んで指の間から出ている部分を切るやりかたにした。これは正解で、いちいち櫛を置いたり取ったりする時間が減って、大幅に速度が上がった。

髪を自分で切るのは床屋に行くのがめんどくさいからで、切るのにあまり手間取ると自分で切る意味がない。というわけでこの速度感は重要です。今回は30分ぐらいで終わったと思う。

速度感で言えば、後片付けの手軽さも忘れてはならないところ。庭で切るのは本当に楽でいい。服装は洗濯のしやすさから上はウインドブレーカーを着てやったのだけど、風通しが悪くて汗をかいて肌に切った髪が張り付いたのが気になった。次はもっと暑くなっているから対策がいるかもしれない。下はいつも履いているジーンズを履いてやったのだけど、終わって手で払うだけでほとんど髪がついていなくて、これは発見だった。

過去の「庭髪」エントリーはこちら。
【308】庭で髪を切る。

【148】庭で髪を切ってもらった。気楽な散髪。
このときはパートナーに切ってもらっていた。

May 23, 2016

【343】庭木の剪定

近くの実家の庭木が伸びに伸びていたので剪定。切った枝はうちに持ち帰る。

庭に葉と枝の山ができた。

あとは気が向いた時に枝を切って薪にする。

秋にサンマを焼くのにちょうどいい。
葉は庭に適当に撒く。

久しぶりの肉体労働。

May 22, 2016

【342】庭のぶどうの花穂の間引き。

庭のぶどう。
先日、針金で棚を作りました。
【335】ぶどう棚を作る。

その後もずんずん結果枝が伸びています。葉っぱもたくさん出て、花穂もつきました。
ブドウの花
受粉していると思われるものもあって、花穂の間引きをしました。
どれぐらいにすればいいのかわからないので、とりあえず結果枝1本につき一房残してみています。
カーポートの屋根の波板をとってそこに這わせています。
写真では見にくいですが針金の棚も増やしています。
これでもたぶん残しすぎだと思いますが、とりあえずこれで。

May 21, 2016

【341】『現代ヨーロッパの精神』ゼミ終了。読むことの面白さ。

割と長い期間かかってゼミで読んでいた加藤周一の『現代ヨーロッパの精神』が終わった。

なんだかんだありながら、最終的にはなかなか良かった。加藤周一が知の巨人と呼ばれる一端を垣間見れた気がする。なんだかんだの部分も含め、ゼミのレジュメの最後に少しだけ書いていますのでよろしければ。

本を読むという行為で生じる体験は、内容や意味といったものとは違うところで読んだ人に引き起こされる。そういうことがよくわかる。この体験を含まずに本を読むことはできない。

その体験(としか言いようのないもの)が有限の情報にしか過ぎないはずの文字の羅列から生じるということはそう簡単に説明がつかない。ここに読むことの面白さがある。

May 17, 2016

【340】「言葉にならない」という言葉。

「言葉にならない」という言葉をよく聞く。この言葉自体については、僕は、あぁそうだなぁと思う。言葉にならないと思うことは僕にもたくさんある。

でもこの「言葉にならない」という言葉から、「だから言葉には意味が無い」「だから言葉は重要でない」「だから言葉を信じてはいけない」というような思考に飛びつく人を見ると、僕は単純にがっかりする。

けんちゃんが鋭く指摘することだけど、「言葉にならない」という言葉で、「言葉にならない」という状況を表し、その「言葉にならない」という状況は伝わっているわけだから、言葉としては十分なのだ。「言葉にならない、ってそれ言葉にしてるじゃん!」ってやつだ。言葉というものを前提にしなければ「言葉にならない」とは言えないわけで、最初から「言葉」の深度の中にいる。

こういうふうに言葉について言葉で何かを表そうとすると、どこか詭弁じみた話になってくる。人によっては屁理屈だととるかもしれない。だからできるだけ上手く書こうと思うのだけど、なかなか上手く書けない。

これをとてもうまく説いているのが吉本隆明で「言葉の幹と根は沈黙である」という言葉で表している。言葉は外側に現れたもので、その言葉自体が現れるまでの幹と根がある。本来的な意味で言葉になっていない沈黙の領域を通ってきていると言ってもいい。その沈黙の領域を含めてしか「言葉」は言葉として現れない。だから、その沈黙の領域への入り口として「言葉」は現れていると見ればいい。

難しいのはこの沈黙の領域とは一体何か、そこでどういうことが起こっているのか、ということで、これについては人類はまだ「それほどうまくは言葉にできていない」のではないかと僕は思う。

この領域を通って言葉以外で何かしらをなそうという人もいて、例えば、絵だったり音楽だったりする。絵や音楽は言葉とは違う表現で、本当はそれらを「言葉以外」とひとくくりにできるものではなくて、絵も、音楽もそれ自体で一つの世界を作るものだから、他の何かに置き換えることはできない。並置すべきものでも対置すべきものでもない。独自にそういうものとしてある。

僕が滑稽だと思うのは、「言葉は重要ではない」という人がこの「言葉にならない」沈黙の領域について、別の「比喩」で言い換えて満足していることで、比喩である以上は言葉なのだから、一体何をやっているのだろうかと思ってしまう。言葉というものの底知れなさに怯えたからといって、目を閉じてやり過ごそうとするのではなく、ただそういうものとして見ればいい。

言葉というものがある面で理性的論理的なイメージをまとっていることから、「いわく言いがたい」という感覚から見た場合に、攻撃対象にしやすいということはあると思う。しかし、言葉というものを理性的論理的に捉えること自体が狭い捉え方で、言葉というのはもっとぞっとするほど厄介で、その厄介さを誕生から今まで保ち続けているところに僕は惹きつけられる。なんの言い換えも必要なく、言葉は僕の全身全霊に迫ってくる。

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