メモとして。
考え事が僕というものをこの世界から切り離し続けている。
考え事が終われば、僕はこの世界に再び戻り僕は世界に統合される。
考え事が始まる前は、この世界に僕という輪郭は、その他の全てと同様に、形作られていない。考え事をした瞬間、〈僕〉が抽出され、その〈僕〉が、ただひとつの世界に対峙するものとなる。
この〈僕〉というのに〈我〉という名前をつけて、この〈我〉を消すという大きな挑戦をしているのが仏教だ。自然というものの原点を、世界からまだ〈僕〉が分離されていない状態だとすれば、自然から見た仏教は、すでに〈僕〉が分離されてしまっている状態から統合的な状態への逆過程を、〈僕〉によってなそうとしていることになる。もちろん、そもそもそんなことに努力する必要はなく、ただ考え事を止めればよくて、その一番簡単な方法は死だということになる。
〈僕〉に対峙する世界に対して、それを意思するものを前提して、〈神〉と名づけられたりもする。その場合、世界は〈神〉と同一で、全ては〈僕〉と〈神〉だけになる。近代の個人というものは、この〈僕〉が〈神〉を上回ることで発生する。自然というものの原点から見た〈神〉への違和感は、自然から〈僕〉が分離し、その〈残り〉のものに〈神〉というラベルを貼り替えていることに端を発していて、そんなことをしなくても、もともと自然は一つだ、となる。
人が何かをしようとするときに発生する〈意識〉というものは、〈僕〉の発生プロセスを〈僕〉の外側からの視線を前提して名付けたもので、〈僕〉が発生したあとは、〈僕〉によってその外側からの視線を代行できるようになる。
「人間の基底」をどこに置くかということは、吹いている風の一瞬を捉えて「最大風速」を観測するような感じがあるけれど、僕にとっては、この〈僕〉の発生するあたりの小さく見れば刻一刻と風向風速が変わっている風の発生そのものがそうで、だからここからというよりは、その風が吹き続けていることが人間の基底と思える。