シリーズ「僕の原爆。」
目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)
【233】僕の原爆。(8)
【234】僕の原爆。(9)
【235】僕の原爆。(10)
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秋田に行くと、僕の誕生日なのに、なぜか弟も一緒にお小遣いをもらった。僕のは小さく折ったお札を紙に包んだやつで、弟のは硬貨だったのが救いだった。僕達が着いた日の夜は、和風レストランから大きな寿司桶に入った寿司が届いて食べたりした。残り物のタネらしく、とても偏りがあって半分ぐらいがマグロの赤身だったりする。寿司は大好きでそれでも喜んで食べた。親戚が近くで洋食のレストランをやっていて、そっちは単にレストランと呼ぶのだけど、レストランからはエビフライやカツがどっさり届いた。そういったご馳走をおじちゃんの家に親戚が集まってみんなで食べる。僕の誕生日ということのはずなのに、僕が特別な感じがしなくて、よく僕の誕生日なんだからと母に愚痴をこぼしていた。いつだったか、おじちゃんが誕生日プレゼントにおもちゃを買ってやるというので、商店街のおもちゃ屋に弟と一緒にいって、何でも好きなのを選べと言われた。僕は15ゲームを選んだ。15ゲームというのは、正方形のプラスチックの枠に、その枠を16等分した小さなパネルが入っていて、それぞれに1から15までの数字と残りの一つは星マークなんかがついていて、その星マークのパネルを取り外して、残りの15枚のパネルをそのひとつ空いたところで順番に指で移動させていって、1から15の番号を縦に並べたり、横に並べ変えたり、ぐるりと渦を巻くように外からだんだん数字が大きくなって、真ん中のところの4枚が13、14、15、空白になるようにしたりするおもちゃで、ほんとにこれでいいのか?とおじちゃんにきかれた。いい、と僕が言って、今度は弟がずっしりと重量感のある電車の模型を買ってもらい、家に帰るとおじちゃんが、隆は安くてこの電車で10個ぐらい買える。とそこにいた人に言って回った。そう言われるとなぜか悔しかったのだけど、僕は15ゲームをその後もかなり長い間しつこく遊んでいて、弟は比較的早く電車に飽きたから、ほらやっぱりこれでいいと、今でも僕は思う。
おじちゃんは、僕が小学校だか中学だかの時に、夜遅く一人で店の事務所で倒れて発見された時には死んでしまっていた。お葬式は盛大で母や親戚はみんな泣いていたが、僕が覚えているのは、火葬場のゴーゴーいうバーナーの音で、こっちでは焼いているあいだじゅう炉の前にみんないて、炉の前のコップの水を取り替え続ける。子供だったからか、おじちゃん熱くて喉が乾くから、と何度も水を取り替える役を僕がやらされた。水のコップを置く台は炉の入り口の蓋のレンガのすぐ前にあって、近づくと熱さが伝わってくる。ゴーゴーという音も激しくなる。コップの水ぐらいでなんとかなるとは思えない。体格のいい人だったから焼けるのに時間がかかった。飽きてしまって落ち着きが悪くなって、時々火葬場の外に大人に連れ出されるのだけど、外にでると気になるのは煙突で、そこから煙が少し出ていて、おじちゃんを焼いた空気がどんどん外に出ておじちゃんだったものが外の空気に混じっていく。それを僕が吸う。世界中のみんなが吸う。でも、この記憶は、おじちゃんの時ではなくて、おじちゃんの母である、つまり料亭の女将をやっていた曾祖母の時かもしれない。あるいは親戚のおばちゃんの時かもしれない。僕は子供の頃は、あったであろう親戚の結婚式には全く連れて行ってもらえず、お葬式ばかりだった。
次へ。