シリーズ「僕の原爆。」
目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)
【233】僕の原爆。(8)
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献花台の前からは、いつもは無いだろう柵が並べられていて、そのまま前に進むことはできない。仕方なく、ぐるりと左手に回りこむようにして、また資料館の前にたどり着く。水を配っている。ちょうど喉が乾いていたし、この暑さだと水を飲んだほうがいいと思って近寄ると、給水所を示す看板にどこか不似合いな手書きの紙が貼り付けてある。水をください。水をください。そう言い続けて死んでいきました。代わりに生きている皆さんが水を飲んであげてください。ここでは何もかもが70年前に直結している。今ここにある現実は、紛れも無く現在だけど、1945年だ。太いパイプで結ばれているすべての8月6日は、いつも暑く、いつも重い高圧の中にある。毎年毎年決まって暑い夏の日だ。
僕も、いつも誕生日は暑い。1971年8月4日午前0時4分は、秋田の今はもうなくなった病院で、秋田でも日中30度を超えた。蒸し暑く、窓を開けていて、遠くからお囃子が聞こえてきていた。この時期、ここでは七夕と呼んでいるお祭りがある。たぶん、東北が制圧された時の、制圧した側か、された側の出陣か凱旋のお祭りで、城をかたどった大きなねぶたが街を練り歩く。一番上は口を大きく開けて牙を向いた魚が二匹、逆立ちするように立っていて、その二匹の大きな目が、ねぶたを前から見ると、2つの目に見えて、だから僕はずっと、それが二匹の魚ではなく、唇が頬まで裂け上がった一つの大きな顔が正面を睨んでいるように見えた。その2つの目がちょうど二匹の魚のそれぞれの目で、天に向かって尖った針のような尾びれは、耳かあるいは逆立って髪の毛で、その顔は怒り狂っていると同時にニヤリと笑っている。今はねぶたの中は電球で明るいが昔はろうそくが中で灯されていたはずだ。電球を灯すために発電機が積まれていて、ねぶたが通り過ぎるときにそのブーンという音が聞こえる。
柳若と書かれている、柳町が出しているねぶたがうちのねぶたである。毎年、どこの町が出すか、出すにはお金がかかるから、毎年出せるわけではなく、ねぶたの数は年によって違う。当番町も持ち回りで、当番になると町の人が張り切る。もちろん、お囃子を聴いた話を何度もしたのは母だけど、その時に生まれているのだとしたら僕も聞いたのだろう。僕の大叔父さんは、この七夕が大好きで、僕たちはただおじちゃんと呼んでいたけれどおじちゃんがゆかたを着て提灯を持って、ねぶたの前のところに立って、提灯を上げ下げしていた。おじちゃんが社長をやっている元料亭の和風レストランと洋風レストランと喫茶と宴会場がいっしょになった僕たちは単に店とかプラザとか呼ぶビルが実家の酒屋の向かいにあって、そこをねぶたが通るときに樽酒や氷水につけて冷やしたビールをねぶたの引き手や太鼓の男たちに店の従業員が振舞っていた。
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