シリーズ「僕の原爆。」
目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)
【233】僕の原爆。(8)
【234】僕の原爆。(9)
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そういうことをなぜ覚えているかというと、毎年ちょうど誕生日の頃に、僕は夏休みでもあるので、10日ほど僕は母と秋田へ帰っていた。実家は商店街の酒屋で、店に入ると独特の、酒とコーヒーと乾物が入り混じったような匂いがしている。左手の棚に酒が並んでいて、いつだったか、秋田沖で地震があった時はそれが全部落ちて割れて、店中がアルコールだらけになったらしい。それ以来、棚の酒瓶の前に細い鎖が取り付けられていて、しかし、それでまた同じような地震が来た時に瓶が倒れないですむとは僕には思えなかった。あの地震があった時は僕は宇治の家にいて、津波が来たらしく、浜の松の防砂林がそれを防いでくれたというような話を聞いた。浜の松は強い風でどれも同じ角度で斜めになっているのだけど、津波というとその上を越えてくる波を想像して、そういう大きな波も防いでくれるものだろうかと、これも半信半疑だ。
秋田へ行くときは、京都駅を夜の9時とか11時に出る日本海という名の夜行列車に乗る。僕が秋田へ行くのが楽しみなのは、日本海に乗れるからというのも大きくて、乗ると、京都から行くときはもう寝台になっている。二段か三段になっている寝台の二段目は、上下に動くようになっていて、朝になると車掌さんかだれかが二段目を上に上げて1段目の頭の上を広くして、つまり、一段目を座席にする。11時ごろの出発の時は、もう周りの寝台は寝静まっている。寝台に入ると紺色の分厚い生地のカーテンを閉めて、小さな空間を作って、荷物を足元の通路側においておいたり、通路の上の部分にある棚のようなところにまとめて家族分をしまったりする。でも、その棚にしまってしまうと、取り出すのが難しく、だいたい降りる時まで取り出すことができない。だから、僕は、夜、乗っている間に荷物の中身を出したりしたいから、寝台の足元に置くか、すぐに取り出せるように、棚の寝台の近くに置く。二段目や三段目、一番上の段は天井が丸くなっていて、列車から降りた時に外から列車を見てあの丸いところだ。荷物と言っても、京都駅の売店で買った帆立の貝柱、酢昆布、冷凍みかんだ。冷凍みかんは冷静に考えるとそんなに好きだというわけではなかったけれど、冷凍みかんというのが普段は見かけないもので、列車で長時間移動する人のために駅の売店で売っているもので、それがこの日本海の旅と僕には直結していて、よく家でみかんを凍らせて、凍らせたほうがおいしいと言って食べた。帆立の貝柱と酢昆布はもっと純粋に好きで、僕はこういう旨味成分が凝縮したようなものがそのころから好みで、それらをちびちび小さく裂いて食べる食べ方も好きだった。
車両の前か後ろにあるトイレと洗面台がある場所に行くと冷水機がついていて、小さな切符ぐらいの大きさの白い紙の封筒のようなものが備え付けてあって、それの両端を親指と中指でつまむようにして口を開けて、冷水機のボタンを押して、水を入れる。封筒は小さく、指でうまく広げておくのも難しいし、列車も揺れるからうまく入れられずにこぼす。冷たい水が手を伝って床にこぼれる。封筒から飲むときもうまく飲めずにこぼす。封筒の紙の匂いがする。封筒の紙は一度の利用だけを想定されているようで、何度も水を入れようとするとへにゃっとなって余計に難しい。連結器のところがギーギーと音がするのがやけに近い。そういう不便さや粗雑さや機械や鉄や重厚さや冷たさが夜の寝静まった静けさに包まれていて、僕はそういうものを全部、困難で怖くて、同時に好きだ。何度も父にせがんで水を飲みに冷水機のところへ一緒に行った。翌朝になってしまうとその大半が失われて、水を飲んでもつまらなかった。父が一緒に日本海で秋田へ行ったのは、僕が小さいころで、中学ぐらいになると父はあまり秋田へは行かなくなった。
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