なぜ愚にもつかないことを書くのか。
僕は考え事を止めることができない。僕にとって、世界はただ在るだけで刺激に満ちていて、風が常に僕に考え事の種を運んできてしまう。次から次へと運ばれてくる種が芽吹き、伸び、葉や花や実をつけていくのから目を離せなくなる。そんな植物が常にいっぱい生えていて、いつも少しずつ変化し続けている。
はたから見ればただぼーっとしているようにしか見えないだろうけれど、そういう時の僕は静かに狂気が進行していて、絡みあう蔦なんかが繁茂しだすと、だれかどうにかしてくれと思う。でも誰もいないからただ困って見続けている。
現実の物理的な僕の体はこういう時には、ゆっくりと停止に向かっているようで、特に内臓活動はかなり緩慢になる。お腹も減らない。お腹が減っているかどうかを意識することができない。
こんなことをしていると、僕は生活できない。生活というのは、食べることであったり、何か役に立つことをすることだったり。
それで、なんとか生活に戻ろうとするときにするのが、最終的に、書くことだ。
書くというのは、その植物たちの様子を写生するようなもので、そのためには細かく一つ一つ見る必要があって、スクリーンに写っているものをぼんやり眺めているというよりは、一つ一つに接近していくという指向性が生まれてくれる。
そうして近接的に見えたものをシーケンシャルに言語化していくことで、ひとまず僕は、その一つ一つから自分を引き剥がしていける。そして生活に戻れる。
こういうときに書いたものは愚にもつかない。だけど、僕には必要なんだと思う。そういうものを自分のノートにそっと書き留めておくだけではダメで、こうしてわざわざ外に見えるようにしておくのは、自分のノートに書き留めておくということと、ずっと眺めているということが近すぎて、自分を引き剥がして生活へ戻れる力にならないからだと思う。はた迷惑な話だと改めて思う。