June 3, 2016

【346】2016年1月7日7時38分に書き留め終わった夢の話。

前のエントリーで夢の話を書いたけれど、僕は時々夢を書き留めておくことがある。書き留めておきたいからそうするということがほとんどだけど、時々、書き出さないととてもじゃないけれどいられないような時がある。この夢の記録はそういう時のもので、具体的には『言語1』の原稿を書き始めようとしている時のもの。内臓が口から吐き出されたような様相を呈しているけれど、もうそろそろ放り出してもいいかなと思う。

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2016年1月7日7時38分に書き留め終わった夢の話。

さっき見た夢の話。

夢を見た。

父親がまだ生きていて、どうやら僕は父親と一緒に住んでいる。父親の状態は、実際に死んだ時よりは少し認知症の状態が軽いようで、僕に何やら話ができる。

わりと長い夢だったがほとんどの部分は思い出せず、最後の部分だけ覚えている。

とにかく、どういう理由でかは忘れてしまったが、父親とともに引っ越しをしなくてはならなくなって、僕は引っ越すなら病院の近くがいいんじゃないかと思っている。

しかし父親は今の家の近所がいいらしい。母親は、現実と同じで、いつも一緒に住んでいるわけではなく、おそらく母親の実家と行き来している。母親は父親の希望を聞いて、近所の売りに出ている家をいくつかピックアップしてくる。

僕の視界には地図が浮かんでいて、それは地図というものが見えているというよりも、地図を思い描いているような感じで、その地図には候補の家の場所が示されている。それを見て、あぁあそこなら駅も近いしいいかもと思う家に意識が行く。

その家は実際に売りに出されていて、こぢんまりとした古い家だが、僕は結構いい家なんじゃないかと思っている。しかし、夢の中では、その家のことを考えた途端に、テレビか何かの映像が流れだす。

これも夢の中でテレビを見ているというよりは、その映像自体が夢の中の僕の意識に再生されるような感じで、その映像は洪水でその家があった部分を濁流が流れている。実際のその家は川からは離れているのだけれど、夢の中でその家は二本の小さな川に挟まれた小さな中洲のようなところに建っていることになっていて、その両側の川が氾濫しているのだ。

この映像を僕はたぶん過去の出来事として見ていて、つまり、今のその家は以前、洪水に流されたあとに建ったということを示している。僕はすぐさま、嫌だと思う。もしまた洪水になったら、僕は父親を連れて逃げないといけないけれど、わりと体が大きく、そしてあまり体の自由がきかない状態になった父親を連れていくのはたぶんできない。

すると母親が「お父さんが誰よりも悲しむねんで」と言う。それと同時に言葉としては言わないが、もし洪水になったら、一人で逃げたらいい。あなたが死ぬことを父親は望んでいないのだから。というような意味の思念が母親から伝わってくる。

僕は本当に悲しくて「そんなことできるわけないやんか」と泣きそうな声で言って、目が覚めた。

目が覚めた途端、僕は父親が死んだのが悲しかったのだと思った。思ったというよりは、そう思わされたというか、そう気付かされたというか、自分で能動的に思うというより、そういう思いが現れる。

自分が悲しかったということを一年半後にようやく夢でわからされるということのひどい状況自体にとても悲しくなる。そうして次の瞬間、まるで映画のシーンが別のシーンに切り替わるように、息子が離婚した前の妻といっしょに家を出て行く日を思い出させられる。

あの時は僕はとても悲しかった。でもそれ自体を引き起こしているのは僕だから、どうしようもない。ただ僕はその日、そういう悲しさが表に現れるようなことをしていない。それ以前も息子の前ではしていない。

悲しいということは言ったと思うけれど、悲しそうにしたことはなかった。それは息子にとってもともとひどい話をよりひどくする現実だった。それを噛み締めながら、体の芯が震えるようなしびれが続く。

これはまずいことになった。

こういう状態になると怖くて眠ることができない。眠れないとこのまま考えが進んでいく。

あらゆることが同じ情緒の中で連鎖的に立ち現れ結びついてしまう。今はたまたま東山の和室に来ていて、一人で寝袋にくるまって寝ている。

いつもなら家で隣に澪が寝ていて、きっと揺すぶり起こして何か話をしただろうけれど、それもできない。今、澪にそばにいて欲しい。眠らず、考えたくないことを考えなくするために仕方なく、そのことを書くことにする。

書きながら自分がいかにひどい人間かを再確認し、そのことで生(なま)の恐怖に砂をかける。こうやって何度も僕は自分を砂の下に埋めてきたのだ。

この夢を見る前にも、一つとても怖い夢を見た。

アンドロイドというか動くマネキンというか、そんな感じの少女が僕を殺そうとして、僕は死闘を繰り広げる。その時も母親がいて、この母親は僕といっしょに戦っている。

最後はどうにかこうにかその少女を倒すのだけれど、僕も結構な深手を負っていて、あぁ死ぬかもなと思って目が覚めた。こうやって書いた時にはおもしろおかしく思えるB級ホラー映画のようなチープさは、夢の中ではまったくなく、それは現実そのものだった。

こんなふうに立て続けに怖かったり悲しかったりする夢を見るのは、ひょっとすると昼間に文章を書いたからかもしれない。わりと長めの文章の書き出し部分で、それはどちらかというと論文的なもので、夢で見たようなこととは全く関係がないし、情緒的なものでもない。

でも自分で書いていることに対して、僕自身が確からしさを持って書けているかを確認しながら書いているから、どこか自分の感覚や感情の扉を開いて中を見るようなところがある。

書き終わっていないから、その扉が開けっ放しになっているのかもしれない。そう思うと書き続けることすらも不安が出てくる。いろいろと困っているが、少し落ち着いてきた。

新聞配達のバイクの音がしていて窓の外が明るい。何度も経験したことがある慢性的な眠気を感じる。それが一番確かであってほしいと思うとき、最も脆くなる。こんな箴言がどこかにありそうな気がする。


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