ときどき美術館に行く。
最近行ったのは国立国際美術館の「森村泰昌 自画像の美術史ー『私』と『わたし』が出会うとき」。
吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を読んで以来、現代美術がより面白くなった。自己表出と指示表出という吉本の概念は、言語以外の美にも通用する。
つまり自己表出と指示表出の二軸で見れば良い。
指示表出は、無限にエネルギーを投下できる方向軸である。森村泰昌の場合は「有名絵画を真似る」という軸で、この方向にどこまでも資源が投下されている。つまり無限に「それっぽさ」を追求している。
無限に投下できるというのは、無限に近づけるということで、逆に言えばどこまでも「それそのもの」には到達し得ないからこそ無限である。
森村泰昌の優れているのは生体的な視覚ではなく、純粋視覚を用いていることだ。純粋視覚というのは、「その人にとって、そうとしか見えない」という像で、これは吉本の『心的現象論序説』で提示されている。
純粋視覚で見ているので、たとえばフリーダ・カーロを真似た一連の作品には、パチンコ屋の新装開店を思わせる花輪が使われていたり、しめ縄みたいなものを頭にかぶっていたりと、もともとのフリーダ・カーロの自画像には描かれているはずがないものが使われている。それでも森村にとっては「そうとしか見えない」からそれでいい。
無限に資源を投下できる軸は、多くの芸術作品で比較的簡単に見つかる。妙な情熱が注がれているように思える軸を取れば、その作家や作品の指示表出軸と見ればいい。
そして、この無限に資源を投下できる軸に対して直交するような軸を探す。これはちょっと難しい。
森村の場合は、このシリーズの最初の作品であるゴッホの自画像(1985年)にそれが端的に現れている。森村はこの作品で高い評価を得て美術界に登場する。つまりこの作品以前では無名と言ってよかった。少なくとも本人としては無名だと思っていたはずだ。
そして、有名になる方法を考えた末にあることを発見する。もっとも最短にそこへ到達する方法は、すでに有名である芸術家そのものになることだと。そうして彼はゴッホになった。
自己表出軸はこの場合「有名になる」ことだ。この軸は、予め到達できてしまうような先着性を持っている。
森村は、有名絵画を真似る方向に無限に資源を投下しつつ、自身が対象になりきることによって有名になった。
現代芸術作品の良し悪しは、この二軸が正確に直交しているかどうかによって評価される。二軸が直交していることで、最大限の座標系を実現できる。
現代芸術はある時期まで、自己表出軸は意図的に作家によって隠されてきた。美術評論家はこの隠された軸を作家に代わって発見することで、作品を評価してきた。
しかし最近は、作家自身によって自己表出軸もあらわにするようになってきたと思う。例えば演劇の岡田利規は、作品の意図を自分でパンフレットに書いていたりする。その意図は、「死んでしまった人のことをどう考えればいいのか」「震災直後のあのユートピア感をみんな覚えているよね」といったいずれもとてもわかりやすい誰にでも思い当たるようなことである。
現代芸術の評価というものが二軸の直交度合いにかかっているからで、綺麗に直交していればそれは優れた芸術として評価される。隠す必要はもうない。この隠す必要のないところ、露骨なところが現代における現代性なのだと思う。