June 16, 2016

【350】飽きることと反復の遠さ。

昨日、箕面の友達と久しぶりに銭湯に行った。いつもその友達が行っていた石橋駅近くの銭湯が改装中ということで池田駅の近くの銭湯まで桜井から阪急を乗り継いで行く。

銭湯に行ったあとは桜井のグルメシティで玉ねぎともやしと卵とコロッケを買って、その玉ねぎともやしと卵を炒めたのとコロッケ、それにご飯を炊いて一緒に食べる。あとビール。

二人で話すことはいつもそんなに変わらない。やることもほぼ一緒。毎回同じようなことをして同じような感じを持って、同じような話をする。

帰るときにはまた来るよと言って帰る。新しいことというのは殆ど無いし、あったとしてもそれを期待するようなこともない。ただ繰り返されていく。繰り返したくなる。

僕は飽きっぽい。何かをやるとなるとしばらくがーっとやって、ぱたんと飽きる。

でも、何度も何度も同じことをする、という面もあって、この友達との時間もそうだ。同じことが起こっていても楽しいし面白い。

飽きる、といったときに、何度も同じことが繰り返されることをセットにしがちだけれど、僕の中では飽きることと反復はそんなに近いところにない。

僕が飽きる、と思う瞬間は、もうこの辺でいいかな、という感覚で、そこまでやってくる道のりがどんなに起伏に富んでいようと、どれほど刺激的であろうと、もうこの辺でいいかな、と思ったら飽きる。すでに飽きている。

たとえると、ジェットコースターに乗っていても、乗っている途中で飽きるようなことで、何度も同じジェットコースターに乗ったからというわけではなく、初めて乗ったジェットコースターでも乗ってる途中で飽きるときは飽きる。

僕にとって、反復することと飽きることの間には、さほど関係があるわけではない。刺激の多少も、さほど関係があるわけではない。牽引力や吸引力も、さほど関係ない。

こういう文脈だと、興味というのはいつでも何に対しても作り出せるし、いつでも失うことができると言える。だからといって興味なんてものに意味がないというわけではなくて、興味はあるし、興味があるからやる。

一回飽きたことをしばらくしてまたやり始めたりもする。

またよくわからないことを書いてしまった。

いつもなら少し時間を置いて、
もう少しドライブをかけた方がいいかな、
なんてことを考えて手を入れたりするのだけれど、
今回は内容が内容なので、このまま公開してみる。


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