June 27, 2019

【580】役割分担をしない場所。

うちでは家事について役割分担を予め決めるということをしていない。これは意図的にそうしてきた。やれる人がやれるときにやる、というやり方だ。

言い方を変えれば、家事という労働を取引に用いないということだ。これを私がやったから、あなたはあれをやらなくてはならない、というたぐいの取引に。

こういう取引は文字通り経済(エコノミー)である。異なる2つのものを交換可能にする。交換可能であることによって、もともとは他者にまで流通しなかったものをを移動可能にすることができる。掃除、洗濯、炊事、その他諸々の作業が労働として交換できるようになる。役割分担によって。

と同時に、節約(エコノミー)が始まる。自分に与えられた職務は、できるだけ効率よくやったほうが得である。必然的に損得(エコノミー)が発生する。

僕は、「節約」や「損得」を家というものに持ち込むことが嫌だった。家のことを交渉材料に投げ入れたくなかった。だから、役割分担をしないようにしてきた。

もちろん、この「やれる人がやれるときにやる」やり方には、欠点がある。というよりも、同じことを別の方向から見るだけなのだが、文字通り、不経済で非効率なのだ。節約ではなく蕩尽なのだ。

まるネコ堂というものが持っている「のんびりした」「時間を忘れる」雰囲気は、この不経済、非効率、蕩尽によって生まれている。こういった世間的にはネガティブとされる語群を意図的に反転させている場所なのだ。これがまるネコ堂という場所の持っている目に見えない基礎の一部を形成している。

わざわざこういうことを書くには理由がある。今、この非役割分担制が一時的に限界に達しつつある。理由は簡単で、子育てというのは、無尽蔵だからだ。子供に対して親は無限の愛情を注いでしまう。それは、表層的には無限の時間と無限のエネルギーを要求する。

まるネコ堂は、こういった無限の吸収源に対して、ぴったりと適応してしまう構造を持っている。一滴残らず投入され尽くしてしまう。

これはまるネコ堂の持っているもう一つの大切な基礎、「開かれている」という状態を削り取っていく。ほおっておくと閉じていってしまう。閉じたくなってしまう。僕と澪がそれぞれ持っているはずの表出の発露の機会が失われていく。外からの流入も途絶えてしまう。表出が失われることは僕にも澪にも耐え難いストレスだし、すでにそのストレスを感じている。いや、もうすでに、限界が近い。

これはよくない。

ということで、子育て担当制を部分的に導入してみることにした。

今日はその初日。日中、子供を澪が見ることを事前に決めた。今後週一日程度、こういう日を作って、僕と澪とで交代で子供をみることにする。

自覚的であることで、分担をポジティブに保つことができるかもしれない。節約ではなく。

さて、どうなるか。

June 23, 2019

【579】好きなことをちゃんとやる。

わりと長く生きてきたけれど、僕にとって今でも重要なことは、好きなことであって、そのなかでも、ちゃんとやってきたことだけだ。好きでもちゃんとやらなかったこと、好きでもないけどちゃんとやったこと、というのもたくさんあるけれど、それらは時々人に話して聞かせる、思い出話として過去を彩ってくれている。それはそれでいいとは思うが、その程度のことだ。

好きなことをちゃんとやるというのは、常に現在形で、過去形「好きだった」「ちゃんとやった」や未来形「好きになるだろう」「ちゃんとやるだろう」では存在できない。

これは「現在に集中せよ」や「現在しかない」というような狭い意味ではなく、過去や未来を含んだ、過去や未来にまで届きうる現在なのだ。

物理的な「この」現実世界の構成として過去と未来は水平に伸びていくが、好きなことをちゃんとやるという軸はそこに対して垂直に位置していて、その垂直軸を進んでいくと突如開ける別の水平面が現れてくる。物理的な世界の言葉で言えば、それは幻想世界としか言いようのないものだけれど、その幻想世界は、幻想世界の「言葉」として「確かに存在している」。実を言えば、言葉というものが幻想世界を支えている構造の一つであると同時に、言葉というものの根拠が幻想世界にあるのだ(おそらくは音楽や絵画やその他の表現のすべての根拠も)。言葉は現実世界に根拠を持っていない。

幻想世界が存在できるのは人間がそもそも幻想世界の存在を基底に持っているからで、世界にとって後天的に幻想世界が現れたわけではない。

もう一度、繰り返しになるけれど、この幻想世界への通路は「好きなことをちゃんとやる」ことである。

June 22, 2019

【578】0歳9ヶ月の食事風景。


床に落ちたのも拾って食べる。

食べることは遊ぶことから分化する。
仔猫がネズミやモグラをいたぶりながら狩りを覚えていくのと同じだと思う。

June 18, 2019

【577】書くことはゆっくりだ。

人の営みの中で最もゆっくりだ。書くことは、たぶん。

ストリートダンスで、まるでスローモーションで動いているような動きをするのがあるけれど、あんな感じでゆっくりなのだ。試しにやってみるとわかるけれど、あれはものすごく筋力がいる。筋肉への意識の精度も高くないとできない。

だからゆっくりといっても、休憩しながらのんびりというようなものではなくて、書くという時間は、全力でずっとゆっくりしている。

紙やキーボードに向かっている間だけが書いているわけではもちろんなくて、書いているという時間は、書こうと思った瞬間に、全部の過去と、全部の未来と、現在の全部を包括してしまう。過去と未来と現在が召喚されて、ゆっくりと文字になっていく。それが書くということが棲まう世界の独特の時間のルールだ。この時間のルールが、数千年前の書物が今も、これからも、遺っていく原理になる。

書くことは、ゆっくりとゆっくりと進んでいく。だからこそ、書くことは高密度で現実を見ることができる。それ以外の時間では見逃すようなことを、当たり前に「まるで止まっているかのように」見ることができる。ことがある。

そのようにして書かれたものを読むことは、現実世界で文字数分にまで圧縮された膨大な書くことの時間を自分のうちで展開することになる。読むことで、書くことのその時間は流れ出し、流れ込む。

書くことと読むことがもたらす当然の帰結の一つとして、現実の裏側、現実の仕組み、そういった現実を支える非現実が少しだけ、現実の向こう側に透けて見えるようなことが起こる。それは、このゆっくりとした時間、高密度な現実の見え方に起因する。

浮かんだり消えたりしながら川面を流れ去っていく泡のような現実を、浮かんだり消えたりしながら川面を流れ去っていく泡のようだと書くことは、泡そのものとして浮かんだり消えたりしながら押し流されて生きていくこととは、違う時間を持っている。永遠と言われる時間だ。

僕が他人に誇れることのうちの一つなのだけれど、人一倍、書くことに挫折してきた。書くことにおけるあらゆる場面で、僕は挫折してきていて、普通の人ならば挫折しなくていいようなところまで出掛けて行ってわざわざ挫折している。その分、書くということがどれほど広いかを識っているとも言えるし、書くことのゆっくりとした時間に居る時間が長いということでもある。

挫折と言うとあれだけど、釣りのようなものだと思う。釣りをしたくなって、魚を釣ろうとして、釣りに行って、釣りをしたけれど、ひとつも釣れなかったということはある。釣りというのは釣れたときにだけ成立するわけではなくて、釣れなくても釣りを釣っている。釣れる釣り人は上手な釣り人かもしれないが、釣れない釣り人が不幸な釣り人だとは限らない。釣りをしていることと魚が手に入ることは、切実に関係しながらも、目的や手段を結ばない。

泡のように浮かんだり消えたりしながら川面を流れつつ、ずっと川岸で釣り糸を垂れている。

June 12, 2019

【576】筋トレ継続中。

4月の中頃から、だいたい毎日続けるようになった筋トレ。今も続いている。

メニューの変更点など。

スクワット。
腰をかなり深めに落として(フルスクワットに近いぐらい)やって、回数は10回を3セットに減らした。太ももに効くようにしている。

プランク。
100秒でやっていたけれど、あんまりお腹と背中のあたりの筋肉に効いてない気がして、フォームをチェックしながら60秒ぐらいに減らしてみている。

腕立て伏せ。
10回を3セット。ごく普通の腕立て伏せがようやくできるようになってきた。

ざっくり書いているけどホントは腕立て伏せでも手を置く位置で負荷がかかる筋肉や負荷の大きさが変わるので、やっぱり回数はあんまり意味がない。

あと、最近昼間ひどく眠くなることがあるのだけれど筋トレのせいかもしれない。対策は単純に昼寝をしている。

June 11, 2019

【575】毎日やり続けるとあっという間にできるようになる。

9ヶ月に入った子供は毎日毎日飽きることなく、つかまり立ちをやっている。低い机だと、そのまま上にお腹で登ってしまったりする。手を伝わせて、伝い歩きらしいものまでやっている。とにかく、ずっとそういうことをやっている。つい数週間前に、生まれたばかりの子鹿みたいに脚をガクガクさせながら、ようやくつかまり立ちして以来やっている。

最近では、かなり長時間、10分以上は立ったままでいられるようになった。筋力がついてきたのだと思う。こんなに短期間でできることが増えていくというのは、そうとうなペースで筋肉肥大が起こっているはずで、筋肉痛もひどいのではと思うけれど、まったくそういう素振りは見せない。ニコニコしながらやっている。乳児には筋肉痛はないのだろうか。

とにかく、そうやって毎日毎日、飽きるどころか、毎回毎回満面の笑みでやっていると、どんどんとできることが増えていく。こんなふうに毎日毎日好奇心に引っ張られて何事かをやり続けることで大きな変化をもたらす。それを目の当たりにすると、僕もやる気になる。たぶん僕自身もこうやって、疲れ知らずで何かをやり続けるということをしてきた時期があって、そのときのおかげで今、それなりにやっていけているのだと思う。

努力というと、我慢してでもというニュアンスが入るけど、そういうことではなくやり続けられる、そんな乳児的な毎日を送ることができれば、人はきっとものすごく遠くまでたどり着くことができるのではないか。

人間とは子供のままの猿である、という説があって、だからこそ人は猿よりも進化したということらしいのだけど、幼稚で有り続けたほうができることは増えていくと考えれば、そういうことは確かにありえる。

June 7, 2019

【催し】山本明日香レクチャーコンサート第3回シューベルトに寄せて

「ある音楽について、言葉にして話されたものを聞くということにどんな意味があるのか。そんなことよりも、もともとの音楽そのものを聴けばいいのではないか」

こういうタイプの言い方は世の中に溢れていて、もちろんそれはそうなのだと思うと同時に、この言い回しに隠れている、ある寂しさに僕たちは慣れてしまってはいけない。

ある音楽について話すということが、その音楽そのものとは違っているということは当たり前だけれど、それと同じように、その音楽そのものも、その音楽をある音楽家が作って表現しようとしたもともとの「なにか」、例えば美しい風景であったり、素敵な想い人であったり、奇妙な体感であったり、心動かされた状況であったり、かけがえのない時間であったりする、そういったもともとの「なにか」とは当然違っている。どれほど厳密に再現されているかのように見えても、冒頭の疑問文が問題視している「意味」では、違う。この「違い」は、表現のもつ宿命のようなものだ。

こういう「そもそも」とか「もともと」とか、そういう「真実」だけが意味なり意義なり価値なり実体なりを持っていて、そこから派生したり、影響されたり、引き出されたりしたものは、「そもそも」や「もともと」の「真実」から一段下がる、という考え方自体が寂しいのだ。

しかし、表現とはその程度のものなのだろうか。

冒頭のような言い回しに直接「いいえ」と答える必要はない。とりいそぎ、それは、表現というもののある一面に過ぎず、もっとほかの面をも表現は持っているはずで、だからこそ、多くのものに対して言葉や音楽や絵や、つまり表現は成されてきたのだ、と返せばいい。

そして考える。

もともとの何かと、それについて話された言葉が、結局のところ異なっているということとは、全く別の次元で、言葉にするということは、ある動揺を生み出す。その動揺が一体何を引き起こすのかを一意に決めることはできないが、少なくともその動揺が、何かしらを引き起こす可能性があるということは確かだ。

その可能性は、それまではこの世界のどこにも存在しなかったはずの小さな場所を作り出す。その場所から見ることで、もともとの「なにか」は、それまで誰も見ることができなかった姿をしているかもしれない。だとしたら、それについて話された言葉によって、「そもそも」や「もともと」の「真実」自体が変質したことになる。

言葉で話されることによって、それまであった「真実」が変質する。

ある音楽についての言葉が、そもそものその音楽を変質させてしまうということだ。これは、もちろん、ある音楽が、その音楽が生み出される動機となったある状況、例えば美しい風景、素敵な想い人、その他諸々のそれ自体を変質させてしまうということでもある。

ある言葉によって、その言葉によって話されるものが変質してしまったり、ある音楽によってその音楽が表現しようとした元の何かが変質してしまったりするというのは、過去に原因があり、その結果が現在や未来に生じるという意味での因果関係では説明できない。現在によって過去が変質しているような順序になっているからだ。

演奏家がモーツァルトやベートーヴェンの有名な曲の譜面を読み、そこで演奏家自身に生じている現象を言葉にする。その言葉によって、動揺が走る。その動揺は小さな場所を作る。そこから見るモーツァルトやベートーヴェンは、あるいはまた彼らの曲は、あるいはもう少し広くクラシック音楽は、あるいはさらに広く音楽というものは、それまでに存在していたそれらの像に何かしらの変質が生じている。この状況で、その音楽そのものを聴くと、それまでに知っていたものとは異なる現象が生じる。

端的に、そこでは、音楽というものがそれまでとは異なってしまう。その「そこ」とは、どこだろうか。こういうことが起こるとしたら、いったいどこで起こるのだろうか。

こういうことから逆算的に、それが起こる「そこ」を、表現が作り出した「小さな場所」と想定すれば、表現というものが成しうる「無限の広さ」を特定できたことになるのではないか。そこでは、「そもそも」や「もともと」や「真実」は、その言葉自体が別の意味合いを持っているのではないか。「そもそも」や「もともと」や「真実」は予め存在する確定されたものではなくて、遡及的に変容してしまうものなのではないか。

ああそうか、音楽って「そもそも」こういうことだったのか、と。

明日香がモーツァルトやベートーヴェンのソナタについて、どうにかして、言葉にしてきたことは、その曲の数百年の歴史に付け足した添え物ではなくて、一つの場所を持った一つの表現である。その言葉による表現に加えて、演奏による表現が合わさった重層的な小さな場所では、もともとのその曲が輝きを変え、その曲が表そうとしたもともとの状況、つまり数百年前の「なにか」の輝きすらをも、もともとそうだったのだと、さかのぼって変容させる。

それぐらいは、マジカルなことが起こっている。

レクチャーコンサートで何をやっているのか、ということについて、現時点で考えているのはこのあたりまで。

次回のレクチャーコンサートはシューベルトです。
7月15日(月祝)。
ぜひおいでください。

【催し】山本明日香レクチャー・コンサート(定期開催)

June 6, 2019

【574】ずり這い。

久しぶりに新(あらた)日記。今日でちょうど9ヶ月目。

這い這いはまだで、移動は高速でずり這いする。

乳児は発達の中で、いろいろなことが段階的にできるようになっていくが、そのなかでもこのずり這いが、僕は一番かっこいいと思う。両手と両足を器用に使って、まるでトカゲのように進む。特に脚の動きがいい。片足ずつ交互に曲げて、つま先がお尻のすぐ下にまで来るように持ってきて、親指と人差し指の根元あたりで地面を蹴りながら、それに合わせて、腕を交互に前に出して進む。

このときに体がくねくねと曲がるのが良い。進んでいく後ろから声を掛けると動きを止めて体を捻って首をこちらに向けるのも良い。そこから、片足を突っ張るように伸ばして、お腹を中心にぐるりとコンパスの針が回るように水平に滑らせて、体の向きを変えるのも良い。

でも、最近、膝を立てて、腕も突っ張って、四つん這いで腕を前に一歩二歩と出すようになった。這い這いだ。今はまだ、脚を垂直にして、お尻を上げて保っておくことができないが、そのうちそれができるようになっていけば、這い這いが完成する。そうなれば、もう、ずり這いをすることはなくなってしまう。

ずり這いよりも這い這いのほうが、できるようになってしまえば、断然楽だからだ。試してみればすぐにわかるが、二足歩行に慣れてしまった大人には、ずり這いは相当にきつい。きついけれど、広い部屋なんかでやるとなかなか迫力があって、宴会芸には良いかもしれない。

ともかく、もうすぐ見れなくなる。

まさに今が、最も完成された、美しく力強いずり這いである。

June 4, 2019

【573】『言語6』できあがりました。


今日『言語6』ができあがりました。今号ははじめての寄稿が掲載されています。山根澪さんの「妊娠の記録」です。僕からするとパートナーなのですが、一応、そういうことを抜きにして共同編集者の小林健司さんと検討し、編集者として掲載を決めています。面白いです。
山根澪さんの寄稿の感想がブログに掲載されているので、そちらも御覧ください。
寄稿という体験

さて、今号は、1号以来続いていた小林さんの「人と言葉の関係論」連載が終わり、前号からつづいていた僕の「これってさ」も後編を無事に書き終え、一段落です。次号からまた新しい展開に入っていきます。

発行間隔が伸びていて、いつも目次横の次号発行予定が詐欺状態になっていますが、本当はもっと出したいと思っています。次号から巻き返すぞ!

ご注文は言語ウェブより。
https://gengoweb.jimdo.com/

June 3, 2019

【572】今日は久しぶりに休み

と宣言したとたんに、休みだからやってしまっておきたいことがいろいろと出てくる。そして、さらに、休みだけれど、休む前に終わらせておきたいちょっとした仕事も出てくる。結局、休みではない日以上にタスクは増えていく。

とは言っても、気分が休みであることは変わりないので、休み気分でタスクをこなしていって、これはこれで気分良く捗って、そこそこハッピー。

この手のオリジナル・ライフハックを僕は日夜せっせと作り出しては、あれこれ繰り出してライフしている。そんな人一倍、実用的かつ機能的な人間で、僕は快さと同時に、つまらない生き方だという残念さも少し味わったりしている。

ホントは不器用さがほしいのだ。骨太の不器用さを。贅沢な悩みの贅沢さを限界まで味わうというのも、わりとハイレベルなライフハックである。

それはさておき、今日はできれば本を読みたい。ゼミやなんかのために読むのではなくて、好きな作家(ということにしておく)保坂和志の『ハレルヤ』をゆっくり読みたい。ウイスキーとか、そんなようなお酒を飲んでもいいと思っている。

June 1, 2019

【571】読書は旅である。習慣で本を読んではい(け)ない。

僕は本をよく読むけれど、本を読む習慣があるわけではない。僕は習慣で本を読んでいない。

ここでいう習慣とは例えば歯磨きのようなもののことだ。習慣というのはその行為をする前から、したあとの結果を予め知っている行為で、別の言い方をすると、すでに確固として存在する「日常」を、良くも悪くも、維持している。

歯磨きをしないと虫歯になって、日常が破損してしまうから、する。歯磨きをしないと口の中がなにか気持ち悪い感じがするから、その気持ち悪さを除去して「通常の状態」に復帰するために、する。習慣とはこういうもので、そのために、「毎回同じである」「固定されたこと」が反復的になされる。

僕にとって本を読むことはそのようなことではない。

本を読む前に本を読んだあとがどうなってしまうかは、未定である。本を読んだあとに、僕と僕の世界が変容してしまう。それまでの自分と世界とが一変してしまうようなことだ。規模の大小はあるにしても、本を読むということはそのような内外の同時並行的な変容を含んでいる。初見と再読とにかかわらず、そうだ。

「読み進めることができない」という場合の理由のいくつかは、この、自分と自分が捉える世界の動的な変容に耐えきれないからだ。読んでしまったが最後、もととは変わってしまうということの恐怖は、好奇心や面白さと同じものだから、この可読不可能性は、本を読むことに予め含まれている。

これは人間が生きていくというその全体性と相似している。僕は、習慣として、あるいは習慣の集積として「生きている」わけではない。

好きで始めた当初は非習慣的だったことが、いつのまにか習慣的になってしまっていることがある。これは一見すると長続きする状態への移行のように思えるのだけれど、実態としては、自分と世界の動的な変容が生じなくなり、安定と引き換えに、恐怖も好奇心も面白さも失われている。機械のように、あるいは、機械のスイッチをいれるように読書をしているということだ。スイッチが入れば自動的にある状態が心身に訪れる。それは本を読むことが中心にあるのではなく、ある心身の状態を手に入れるための常備薬として本を読むという行為が機能していることになる。行為によって報酬が得られることを知って、報酬を求めて行為している。

僕にとって本を読むことにそのような精神安定剤的要素はない。興奮剤的要素もない。予め何らかの効果を想定して読んでいない。本を読むのは自己と世界の変容を伴う未知への旅である。