文の良さ、話すことに対しての、書く文の良さは、断続性にある。話すことは連続している。時間というか時系列がそれを結びつけてしまっている。
書かれた文は、と書いてから、続けて何か書いたけどそれを消して、こうして別のことを書いてもいい。
それってすごくない?と僕が言ったら、あなたはぽかんとした。
三日前に書いた文につなげて続きを書いてもいいし、一年前でも五十年前でも、千年前の文の続きを書いていい。ということは、自分の文でなくてもいい。
それってすごくない?ともう一度言ったら、話だって千年前の他人が話した話を話してから自分の話をできるとあなたは言った。
それは、自分の口から声に出して話してしまったら、それは自分の話になってしまう。それは今、話した話になってしまう。
と、どうやら僕は思っているということがわかる。
千年前の他人の話した話は、やっぱり千年前のそこにだけ存在していて、すでに失われている。
誰々がこのあいだこんな話をした、という事をどんなに頑張って話しても、その話ではない。
でも文は、文だ。千年前に誰かが書いた、その文だ。というか、誰が、いつ、どんな状況で、どんな筆記具を使って書いたかとか、実は問題にしてない。
それってすごい。
夜中の、確か一時過ぎだった。目が覚めて、その時思いついていて興奮した内容をiPhoneに書き留めた文章は、なんかやばい。夢ででも考えていたのかな。
いやでも、速水健朗さんのPodcastとか、一回分の配信を、少しずつ録音して編集して繋いでるって言ってた。僕が聴く時、それを、わりとひと繋がりの話として聴く。
確かにそうだ。それってすごい。録音ってすごい。