October 29, 2018

【471】好きであることと心地よいことの交点。(生後53日目)

新(あらた)は、多少ぐずついていてもベビーカーに乗せて、ガタガタと動き出すととたんにおとなしくなる。家の中とは違う外の雰囲気と移ろいゆく景色に注意の全部が支払われていて、泣いている場合ではなくなるようだ。

こういうのを見ていると、普通に「新は散歩が好きなんだ」と思うし、そう口に出しても言う。しかし、新自身にとっては「好き」と言いきれるほどの体験とは言えない。もう少し違う言葉が適切な気がする。

空気の匂い、風、温度、目に映る風景、車や人の音、顔に当たる日差しと影のコントラスト、そういったものが次から次へと洪水のように押し寄せているのだろうから、大人なら例えばジェットコースターに乗っているようなものかもしれない。あるいは、ものすごくテンポの早いドラマや映画を観ているようなものかもしれない。

ベビーカーが家の前の道を左に進んで、突き当りをもう一度左に曲がると、かなり急な坂を下ることになるのだけれど、このあたりまで来るともう、新は、押し寄せる刺激に疲れるのか、だいたい眠ってしまう。だから、洪水のような刺激は、この時点では、眠気を誘う快適さに取って代わられている。

好きだということと心地よいこととは、必ずしも一致しない。好きであるからといって心地よいとは限らない。心地よいからといって好きであるとは限らない。好悪と快不快は別である。この2つの間には、距離がある。この隔たりの間に、何かがある。あるいは、こういうイメージでも良い。好きであるという軸と心地よいという軸が直角に交差しているその交点に、何かがある。大人になっても。

【470】自然発生的フリーマーケット

昨日のこと。

澪が赤ん坊を連れて散歩に行ったと思ったら帰ってきて「すごいから来て」というので、ついて行ってみると、すぐ近所の人が家の前に棚を置いて本を並べて「ご自由にどうぞ」とやっていた。

以前からうちでちょくちょく出しているガレージセールとそっくりのスタイルである。


うれしくなって我が家も出店する。


同じ道沿いで、ほんの30メートルほどの距離に似たような本棚。通りかかった人はちょっと驚いたと思う。

カラーボックスやいらなくなった棚を使うと、ダンボール箱などに入れるより、それっぽくなって楽しい。今日のように天気が良くて風が強くない日曜日は「ご自由にどうぞ」に最適である。

これ、みんなでやれば、市が自然発生するかもしれない。なんだか楽しい。

参考エントリー
【437】カラーボックス一個からできるガレージセール。


October 28, 2018

【469】おしっこがおしっこ臭くなってきた。(生後52日目)

無色透明無味無臭だったおしっこが、あ、いや味は知らないけど、おしっこ臭くなってきた。心なしか色もついてきた気がする。

うんちもだんだん固まってきたし、だんだん内臓が働き出してきた。手足はまだ思うようには動かせないのだから、解剖学者の三木成夫的に言えば、まずは体壁系よりも内臓系から整っていくということだろうか。

ここのところ、抱っこの要求が増えてきた気がする。正確には「抱っこをしてほしい」という欲求が独立して現れてきたというか。以前は、抱っこは、授乳や睡眠といった欲求に付随するものだったのが、抱っこそのものがほしいという感じに変わってきている気がする。

生まれた直後はとても単純に、お腹が減ったときだけ泣いて、お腹がいっぱいになれば直ちに眠っていたのだけど、その後だんだんとお腹がいっぱいになっても眠らないことが例外的に出てきている。やがて、お腹がいっぱいであることと寝ることのあいだの直接的な関係は薄れていくのだろう。

こういうこともひょっとすると、おしっこやうんちに色や形がついてきたこと、つまり内臓の発達と関係があるのかもしれない。

October 27, 2018

【468】意外にも大きかった鼻くそがとれた。(生後51日目)

昨夜。寝ている新(あらた)の鼻がズーゴーズーゴーいって苦しそうで、寝入ってもしばらくすると起きてしまう。鼻の穴を覗くと、乾いた鼻くそが息のたびにヒコヒコと動いてはいるものの、それ以上奥は見えない。ティッシュでこよりを作って少し突っ込んでみたりするものの、取れそうにないので、仕方なくそのままにしておく。

朝になっても、まだズーゴーズーゴーと苦しそうで、機嫌も悪い。どうしようかとまた鼻の穴を覗いてみると、今度は昨夜とは違って湿っぽくて粘っこいものが少しだけ見えていて、生きのたびにわずかに出たり入ったりしている。

そこで、ベビー用の綿棒で、その粘っこいものだけでも取れないものかと、左の穴に軽く突っ込んでみる。

すると、ズルリとゲル状の鼻水というか鼻くそが綿棒について出てきた。小さな鼻に似つかわしくない、全長1.5センチはありそうな巨大な鼻くそで、びっくりした。

右の穴を覗いてみるとこちらも同じように小さな鼻くそがヒコヒコ動いている。で、こちらにも綿棒を入れてみると、またしてもズルンと同じ大きさのウェットな鼻くそが出てきた。

これで、すっきり鼻が通ったのか、気持ちよさそうな顔をしている。

体の大きさに似つかわしくない巨大な鼻くそだったが、そういえば、響き渡る重低音サウンドのおならも、大人顔負けの立派さである。

【467】だいたいずっと家にいる。豊かな生活のために家に居ること。(生後50日目)

うちは、僕と澪が一日中家にいる。二人で、家事と子育てと若干の仕事をやっている。新(あらた)の生後50日たって、最近はだいぶ落ち着いてきたけれど、最初の二週間はかなりきつかった。

もし、これで僕が外へ働きに出ていたとしたら、生活も子育ても相当に厳しい状況に置かれたと思う。たとえ、布おむつを紙おむつに、母乳をミルクに、買い物を配達に変更して、負担を下げたとしても。

だから、たとえ、料理がうまく作れなくても、掃除や洗濯をやったことがなくても、人がいるというだけで、かなり助かる。家事というのは、下手でもなんでも、3日もやれば、だれでもそれなりにできるようになるものだし、完成度が低いことによる弊害は大きくない。

新生児から目を離すのは短時間でもリスクがあって、精神的な負担が生じる。一人だとゴミの日にゴミを出すことすら一大事となる。ほかにも、授乳中は母親は身動きが取りにくいので、ガーゼを取ったり、おくるみをセットしたり、買い物に行ったりと、普段ならどうということのない簡単なことをする人が家の中に増えるだけで、大きく助かる。

現時点で、僕が考える子育てに必要な人的資源は、24時間平均して家の中に2.0人、できれば2.5人以上だと思う。これは必ずしも赤ん坊の親やその親族である必要はない。

一つの家の中にいる人の人数というのはこの100年で大きく減少したはずだ。よく言われる核家族化もそうだけれど、それだけでなく、家族ではない人が家にいるということ自体がまずなくなった。これが結果的に、現代的な社会問題の多くの原因になっていると思う。子育てに限らず、あらゆる福祉的な面や災害時対応など。

家に人がいるということの影響は、生活や子育てという、主にソフト的な面だけでなく、それだけでハードとしての家がメンテナンスされていくことにつながる。家に人がいること自体を、家の消費として捉えるのではなく、家の維持だと思ったほうがいい。家にいる人数が多いこと、それだけ多くの営みがなされる。その営みの大きさが、家のハードもソフトも豊かにしていく。家を維持し、より豊かにするのは、修理代や改築費といったお金ではない。どれほどのお金があろうと、人のいない家は貧しい。営みのない家に豊かさはない。

単純な話で、営みというのはそれがなされている場所を豊かにするのだ。

外に働きに出てお金を稼ぐということ自体を否定するつもりはまったくないのだけれど、外で働いているその営みは、外を、つまり職場を豊かにすることになる。定年退職したのに、同じ職場に再就職してしまう人がいるのは、長い時間を過ごした分、自分が職場を豊かにしたという自負があるからだろう。職場の豊かさのために自分の時間を費やしたという実感がそうさせるのだと思う。

そんなわけで、みんな、もう少し、家にいるということが成し得ることを見直したほうがいいですよ。と、ほぼ一日中家にいる僕は主張したい。今という時代、家にいることが過小評価されすぎているように思える。もっとも、気分転換は必要だけど。

家でなくても、その場所を豊かにしたいと心から思える場所があるのならば、その場所で営む時間を増やすことにどんな後ろめたさも感じる必要はない。たっぷりとその場所に自らの養分を滴らせていけばいい。

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