新(あらた)は、多少ぐずついていてもベビーカーに乗せて、ガタガタと動き出すととたんにおとなしくなる。家の中とは違う外の雰囲気と移ろいゆく景色に注意の全部が支払われていて、泣いている場合ではなくなるようだ。
こういうのを見ていると、普通に「新は散歩が好きなんだ」と思うし、そう口に出しても言う。しかし、新自身にとっては「好き」と言いきれるほどの体験とは言えない。もう少し違う言葉が適切な気がする。
空気の匂い、風、温度、目に映る風景、車や人の音、顔に当たる日差しと影のコントラスト、そういったものが次から次へと洪水のように押し寄せているのだろうから、大人なら例えばジェットコースターに乗っているようなものかもしれない。あるいは、ものすごくテンポの早いドラマや映画を観ているようなものかもしれない。
ベビーカーが家の前の道を左に進んで、突き当りをもう一度左に曲がると、かなり急な坂を下ることになるのだけれど、このあたりまで来るともう、新は、押し寄せる刺激に疲れるのか、だいたい眠ってしまう。だから、洪水のような刺激は、この時点では、眠気を誘う快適さに取って代わられている。
好きだということと心地よいこととは、必ずしも一致しない。好きであるからといって心地よいとは限らない。心地よいからといって好きであるとは限らない。好悪と快不快は別である。この2つの間には、距離がある。この隔たりの間に、何かがある。あるいは、こういうイメージでも良い。好きであるという軸と心地よいという軸が直角に交差しているその交点に、何かがある。大人になっても。