August 4, 2015

【216】僕の原爆。(3)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)

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数日前に電話をして、7月23日に奈良の叔母のマンションへ行く。部屋に入り、まずはと仏壇に線香を上げる。叔母の夫が使っていたものだろうか、医療用のベッドが隣の部屋に置いてある。ちょうど叔母の孫娘、つまり僕の従兄弟の娘が来ていて、一人で静かに本を読んでいる。僕にとって従兄弟はこの子の父親の僕と同い年の一人だけで、つまり、僕の母は一人っ子で僕の父は妹が一人だけいて、その妹がこのマンションに住む叔母で、その叔母夫婦の子供は一人っ子である。

従兄弟が一人しかいないということに何か不都合があったり、寂しさのようなものがあったりするかと言われると僕にはない。お盆や誰かの葬式で田舎に行くと従兄弟がたくさんいて、というよくある田舎の風景としての話の実感はだから僕には全くない。

巨大な身内グループとしての親戚というものを感じるのは、母の実家の秋田の方で、母の母、つまり僕の祖母にはたくさんの兄弟姉妹が居た。それらの兄弟姉妹の父親はその街の材木屋で、母親はその妾だった。料亭の女将をやっていた僕の曾祖母であるその人は僕が子供の頃に死んだのだけど、その葬式はなんとなく覚えているし、曾祖母のことも覚えている。東北特有の口をほとんど開けない不明瞭なしゃべり方でしかも強烈な訛りだったから、僕には何を言っているのかさっぱりわからなかった。葬式では遺体を棺桶にいれて、小さめのおにぎりみたいな鉄の塊で棺桶の蓋に釘をガンガンと打ち付けた。彼女が、僕にとっての親戚という大きなグループの元締めである。材木屋の方は全く面識がないし、そういう話を聞いたのも僕がおとなになってからで、つまり、僕にとっての親戚に含まれていないし、家系というものとしては連続していない。同様に、材木屋の家系には僕たちは含まれていないか、存在しないことになっているだろう。

奈良の叔母は父の妹であるので、そういう秋田のこととは無縁である。テーブルにつくなり、叔母は地図を出してきて、多分ここの角だと思うのよ、そうじゃなければこっちの角か、と切りだした。前置きも何もなく直裁的に話すのに少したじろいでしまったが、この人は実はこういう人だったのかと、いまさらながら思った。そういえば、二人でじっくり話をするのは初めてで、覚えているのは子供の頃、その頃は大阪の狭山に叔母夫婦と従兄弟が住んでいて、よく遊びに行ったことで、その時は叔母と話をするというよりは従兄弟と遊んでいただけで、叔母との会話はほとんどなかった。だれでもそうなのかもしれないけれど、僕は大人とほとんど会話をしない子供だった。僕にとってそうであれば、叔母にとってもそうなのだから、叔母は突然、昔の家のことを、広島の原爆のことを聞きに来た僕のことをどう思っているのだろうかと、余計なことを思い続けていた。

叔母は僕の疑問、当時の家の場所への答えを提示したあと、順不同で思い出したことを次々と話しだした。

まず、その中区大手町5丁目の家で叔母は生まれていない。叔母が生まれたのは原爆から1年半後の昭和二十二年、広島市内の西観音町で、そこは祖母の実家である。大手町の家が原爆で焼けてから、同じ場所に家を建てられるようになるまで10年ほどかかったらしい。それはお金の問題で、なかなか再建できなかったようだ。西観音町の家も、平和大通りの区画整理で移転していて、今は通り沿いの何もないスペースだという。

時系列に整理すると、父が生まれたのが昭和18年だから1943年の8月14日、原爆投下が1945年8月6日、叔母が生まれたのは1947年2月。西観音町の家で父と叔母は子供の頃を過ごし、父が小学5年、叔母がちょうど小学校へ上がるぐらいの年に、大手町の家が再建される。だから叔母にとっても父にとっても、子供の頃の記憶というのは、西観音町の家であって、お祖父ちゃんがよく川で魚釣ってきて庭で焼いて食べたのよ、という叔母にとってのお祖父ちゃんがその家の主で、川というのは太田川だ。

では、この西観音町の家は原爆で焼けなかったのかとたずねると叔母はしばらく考えて、そうねぇそうよねぇ、庭に大きな松が残っていて平和公園に寄付したって言っていたから家は残ったのよねぇ多分。あと、シベリアから持って帰ってきたなんか古いものが残っていたから、焼けなかったのよね。と、家そのものではないものが残っていたことから家も残ったのだろうと言う。家というものはそういうふうに、当たり前にあるもので、それがいつからそこにあったかなんて意識に上らない。

叔母の話も必然的に親戚の話になっていった。特に、叔母の父の妹か姉が満州から子供二人を連れて帰ってきたという話をして、叔母は少し年上のその子供、つまり叔母にとっての従兄弟とよく遊んだことを覚えていた。特にヨシノリさんという人のことは覚えていて、その子は、片親で貧しく新聞配達なんかをしながら広島随一と言われる名門高校を主席か何かの優秀な成績で出て東大へ行って、とても有名だったのよ。その時はそんなこと考えもしなかったけれど、残留孤児になってもおかしくなかった状況だったのよね。お祖父ちゃんがよくその母親を褒めていたけれど、ドラマになってもおかしくないようなことがあったのだろうなと後になってからわかるのよ。

その満州から連れられて帰ってきたヨシノリさんとは、僕は、その後、全く予想しない形で会うことになる。僕が最初に勤めた会社をやめて転職し、大阪ボランティア協会に就職した直後の2005年に大阪ボランティア協会の40周年の記念イベントが有り、そこへ来ていた日本NPOセンター事務局長の田尻さんが、大谷くん親戚に合わせたげるわ、と引きあわせてくれた同センター副代表理事(当時)山岡義典氏、それがヨシノリさんである。お祖母ちゃん元気かときかれたのか、お祖母ちゃん亡くなったんだってねと言われたのかは忘れてしまったが、山岡氏にとっては母の兄弟の結婚相手、僕とって祖母の話をすこしだけした。

この話を当時、父にした時は父も、そうそうと話しだした。何かのシンポジウムで、こっちは社会福祉の研究者として、向こうはNPOの研究者としてともに登壇し、終了後に、もしかして広島ですかと話しかけられたのだという。子供の頃以降、交流はなくなっていたらしい。父もだから山岡氏のことはヨシノリさんと言うし、おそらく子供の頃はヨシノリ兄さんとか兄ちゃんとかいうような呼び方だっただろう。

どういうタイミングだったかは忘れたけれど、親戚の誰それが当時何をしていてというような叔母の話が少し途切れたところで、お祖母ちゃんと父親はどこで被爆したんだろうと僕は叔母に尋ねた。叔母は、家じゃないの、と答えた。

僕が僕の母親から聞いた話では、己斐駅という少し離れた駅だったし、父親の被爆者手帳にも、そう書いてある。父の被爆者手帳のコピーを見せると叔母は、祖母がかろうじて話し残したという1945年8月6日のことを話しだした。

おばあちゃんはずっとお兄さん(つまりは僕の父親)をおぶって歩いていた。その時、己斐町かそのあたりにたぶん知り合いの医者か何かがいて、その人に背中のやけどについたウジをとってもらったりした。その後、太田川沿いを歩いて旭橋あたりで、西観音町のおじいちゃん(つまりは僕の曽祖父)と会って西観音町の家に行った。そうやって歩いている間に川に死体がたくさん浮かんでいるのを見たり、ひどい火傷をしている人をみたりした。祖母は父親を背負っている時に、背中側から熱線を浴びていて、だから、首の後ろあたりの背中にケロイドがある。父親は、頭に当たった頭に当たったと家中で大騒ぎになった。この家というのはだからたぶん西観音町の祖母の実家のことだろう。

叔母の話をまとめると、1945年8月6日午前8時15分に祖母と父は自宅かその付近で被爆した。その後、祖母は父親を背負って知り合いの医者のいる直線距離で約3キロの己斐町まで歩き、治療を受けたあと太田川沿いを南下しているところを旭橋で父親と偶然出会い、実家へ避難したとなる。被爆者手帳はその己斐町での治療記録か何かを下に発行されたのかもしれない。

しかし、これは本当にそうなのだろうか。大手町5丁目の家は、爆心地から直線距離でほぼ1.5キロ。現在明らかになっている爆心からの距離による被害の状況によると、500メートル以内での被爆者はその年の11月までの統計で98から99%死亡。1キロメートル以内では約90%まで低下してはいるが死亡率はとても高い。爆心から1.5キロの資料は見つけられないけれど、それでもかなりの割合の死亡率が予想できる。そんな状況の中、僕の祖母と祖父と父は3人とも生き残り、つまり生存率100%で、最も早く死んだ祖父ですら、昭和45年だから1970年まで生きた。

ウィキペディアに載っている直後の写真は、建物らしきものはコンクリート造りのものが数えるほどしかなく、あとは野原だ。叔母の話を聞いて少しイメージができるようになったのは、8時15分、その瞬間に写真に写っている全域が一気に焼け野原になったわけではなく、その後燃え広がった火災によってそうなったということで、爆発の瞬間の直後数時間、この野原だった場所に多くの人が生きて歩いていた。

祖母と父がその瞬間、どこにいたのか、それについての疑問はともかく、もう一つ疑問が出てくる。祖父だ。

祖父はその瞬間どこにいたのか。祖母や父と一緒にいなかったのか。一緒に居たとしたらなぜその後の行動を祖母や祖父と一緒にしなかったのか。

これについて叔母が知っていることは祖母や父についてよりはるかに少なかった。まず、叔母は当時はもちろん、彼女の父が一体どんな仕事をしていたのかについてほとんど知らなかった。原爆の瞬間、どこで何をしていたのか、どんな職業についていたのかも知らなかった。知っていることは、最初は広島県庁の職員だった、というだけだ。その後転職したかもしれないし、していないかもしれない。それもわからない。

一般に、自分の父親の仕事を知らないというのはあまりない。しかし僕はそれを問いただすよりも前に、県庁職員というところにひっかかってしまった。もしも世界で最初に原子爆弾が投下された場所の行政職員だったとしたら。

広島県本庁舎は当時、別の場所にあった。現在のアステールプラザの付近で、ここだと大手町5丁目の自宅から徒歩で通勤しただろう距離だ。グーグルマップだと徒歩13分。この本庁舎は原爆で壊滅した。

もしも祖父が当時県庁職員であったとしたら8時15分にどこにいたか。ウィキペディアを見て驚いたのは、「当時は週末の休みは無く、朝は8時が勤務開始であった。」という記述だ。戦況が限界まで悪化している戦時中とはそういうものかもしれない。とすれば、県庁も8時勤務開始だった可能性が高い。

祖父は8時15分に自宅から徒歩13分の距離にある県庁で仕事をしていて被爆した。その瞬間以降、県庁職員としてどのような職務を果たしたのか、あるいは果たさなかったのかわからないが、徒歩13分の距離には若い妻と1歳の一人息子が残されていた。祖父が何を思ったのか。

そしてその妻は1歳の息子を背負って3キロ以上、街中が火災と死者と怪我人にあふれている中を歩いた。夫は同行していない。連絡がとれたかどうか、生きているのかどうかもわからなかったかも知れない。会うことができたとしても、夫はそのまま「仕事」に戻ったかもしれない。

叔母は、祖母が当時のことをいかに話したがらなかったかを教えてくれた。叔母の夫は中学の教師をしていた。今から20年ほど前、夫は学校の平和教育の一環として、身近な存在に原爆の被爆者がいることを思い出した。そして、学校でそのときのことを話してくれないかと祖母に依頼した。祖母はそれを聞くなり心臓がバクバクいいだしたという。話すことはおろかその当時のことを思い出すことすら、無理だった。原爆のその日から約50年が経過していたにもかかわらず。

一歳の我が子を背負った背中側から、いうなれば自分はその陰に隠れるように熱線を浴びた祖母。祖母は、背負っていた一人息子の頭に「それ」が当たったことを誰よりもよく知っている。それがただの光ではないことは、その後いやというほど思い知らされる。そのたびにその瞬間のこと、自分の代わりに頭にそれを受けたわが子のことを思い出さされる。大量の死体と焼けていく街、その視界、その臭い、自分のやけどの痛み、ウジが這いまわる感触。

祖父も祖母も父も、結局、原爆のことはろくに話さないまま死んだようだ。いくつもの謎を残したまま死んでいった。当時を知らないものとして僕は彼らから何かを聞き出すべきだったかと問われると、そうは思わない。彼らが話さなかったことは、彼らが話したことと同じぐらいの何かである。何も話さないで死者になった彼らは、今もこれからも何も話はしない。

いよいよ明日、広島へ立つ。僕は僕の原爆を見に行く。なぜか、数日前に広島へいくと友達のむっきーに話したら、僕も一緒に行きますと言い出して、旅路を共にすることになった。

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