シリーズ「僕の原爆。」
目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
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椅子は限界まで並べられていて、会場の後ろ側から前側へと通路を歩きながら、その通路に対して横方向に並んでいる椅子の列のどこかに座ることになる。通路は狭く人一人分しかなく、人が行き交うことも大変で、椅子の前後もぎりぎりなので、すでに座っている人の向こう側に行こうとすると、座っている人が小さくなってもその膝と摺り合い、片足ごとに体のバランスをとりながら歩かないと行けない。だから必然的に通路を前へ進もうとする列はなかなか前に進まない。一般席の前に遺族席があるようなのだけど、それがどこのあたりなのかもよくわからない。とにかく、座れればいいと、それほど前へ進まずに、会場の後ろ近くで座ってしまう。もともと遺族席に座れる資格やそれの証明のようなものを僕は持ち合わせていない。会場のメインとなる場所は遠くてよく見えないが、見えることで何かが変わるという気もそれほどしない。それよりも早く座って自分の場所を確保したい。
むっきーと並んで座っていると、すぐ前に5列ほど空席が並んだゾーンがある。その空席のゾーンをうろうろと歩きまわる女性がいて、団体用に席を確保しているらしい。自分が確保している席に座ってしまった一般客にいちいち説明をしてどいてもらっている。携帯電話で、何人でもいいからとにかく早く連れてきてくださいとイライラとしゃべっているのを聞いていると、こちらもイライラとしてくるのが嫌で、客観的な気分になろうとつとめる。
席を求め、通路を並んでゆっくりと進んでいく人の列の中には、外国人が多くて、人種も様々だ。家族連れも多く、白人の親子や黒人のカップル、民族衣装的な色彩でゆったりと羽織るような服を着ているアフリカ人らしい人。様々な文化と常識をまとった人々。それが、早く座りたい、自分の席はどこだ、という強い欲求を誰もが抱えていて、体が触れ合うような距離に詰め込まれている。自分の国ではこんなことは起きない。こんなに窮屈な場所はない。こういう場合は、もっと広い空間を使う。そもそも、この会場に入れる人を制限して、椅子もゆったりと配置する。なのになぜ? そういう心の声が聞こえそうになり、どこかで誰かが怒鳴り出したりしないだろうかと僕は心の底でひやひやしている。
白い大きな、どことなく絵本で見るサーカスのようなテントが張られたその下にも、だんだんと日差しが通り抜けてき始める。湿度と温度が上がっている。風は弱い。このままどんどん蒸し暑くなっていったらどうしようか、途中で抜け出すには、椅子の列は長すぎる。びっしりと並ぶだろう膝をかき分けながら通路に出るのさえ、難しい。式典中はそういうことができる雰囲気ではなさそうだ。もしトイレに行きたくなったらどうしよう。そんなことを考え始めて、持ってきた扇子でバタバタと仰ぐことぐらいしかできない。その最中も、あの音が鳴っている。
後ろの席に並んだ男の会話が聞きたくもないのに聞こえてくる。隣に座った二人組の若い女性の不快そうな様子が気になる。ここで僕は何かを感じることができるのだろうか。広島までわざわざやってきて、何かを得ることができるのだろうか。暑かった、人が多かった、で終わるのではないか。僕はここへ来てよかったのだろうか。ここは僕のようなものを排除したがっているのではないのか。気が付くと、団体用に椅子を確保していた女性の団体が何人かずつ、班ごとにやってくる。引率の大人に連れられた小学生か中学生で、その小学生か中学生で空席のゾーンが埋まっていくのにほっとしている。不意に管楽器の音が、勢い良く流れ、ひとしきり盛り上がり、あぁそろそろ始まると思っていたら、アナウンスが開始を告げた。通路にはまだ人の列があったが、だからといって何かが困るようなことにはならなかった。
次へ。