この本を読むと吉本隆明の自己表出について考えが及ぶことが多い。
▼言葉と思考。心の動きと出来事の描写。自己表出。
言葉として存在しないことが、直ちに存在しないとは言えないのは当然のように思えるが、これは、言葉の無能さ・限界を指し示すと同時に、言葉というものの存在原理でもある。
僕たちが何かを体験した。その体験は素晴らしいもの、あるいは、ひどいもの、あるいはまた平凡なものだった。しかし、どのようなものであったか「言葉にすることが出来ない」「筆舌に尽くしがたい」「言葉にするとどこか違ってしまう」と思うことはよくある。ここで終われば、文字通り「言葉にならなかった」となる。多くの場合はこのようにして言葉というものの限界点を示して、その体験の痕跡に留まる。しかし、一部の例外的な場合、それでもなんとか表出しようとして、歩を進める。その手段は、ともかく自分が体験した出来事を述べることになる。出来事の描写である。そして、その述べたてたところの言葉を別の人間が受け取って、その体験を再現することで、「言葉にすることが出来なかった」はずのその「何か」を体験したと感じることができる場合がある。出来事の描写しか言葉になっていないにも関わらず、曰く言い難い感情や感覚や思考や、いわゆる心の動きのような、話し手の内部に生じたそれらの渾然一体と成った何かが、受け手にも発生する場合がある。言葉自体が「出来事の描写」しかなされていないからといって、そういった「言葉にならない」ものが存在しなかった、ということにはならない、という言ってみれば当たり前のことがここにある。
僕たちが何かを体験した。その体験は素晴らしいもの、あるいは、ひどいもの、あるいはまた平凡なものだった。しかし、どのようなものであったか「言葉にすることが出来ない」「筆舌に尽くしがたい」「言葉にするとどこか違ってしまう」と思うことはよくある。ここで終われば、文字通り「言葉にならなかった」となる。多くの場合はこのようにして言葉というものの限界点を示して、その体験の痕跡に留まる。しかし、一部の例外的な場合、それでもなんとか表出しようとして、歩を進める。その手段は、ともかく自分が体験した出来事を述べることになる。出来事の描写である。そして、その述べたてたところの言葉を別の人間が受け取って、その体験を再現することで、「言葉にすることが出来なかった」はずのその「何か」を体験したと感じることができる場合がある。出来事の描写しか言葉になっていないにも関わらず、曰く言い難い感情や感覚や思考や、いわゆる心の動きのような、話し手の内部に生じたそれらの渾然一体と成った何かが、受け手にも発生する場合がある。言葉自体が「出来事の描写」しかなされていないからといって、そういった「言葉にならない」ものが存在しなかった、ということにはならない、という言ってみれば当たり前のことがここにある。
この「言葉にならない」もの、何かを指し示すことができないもの、であるにも関わらず、書き手にただならぬ何かを引き起こし、読み手にも感取されたそれそのものを吉本隆明は自己表出と呼んだ※。言葉というのは、その自己表出性が、ともかく何かを指し示すということそのものである指示表出性と交差し折り合うことで「言葉になる」。「言葉にできない」という沈黙は、多くの人たちにとっては言葉の限界であるが、別の人には言葉の可能性である。言葉の側から記述すれば「言葉にならない言葉にできない」その「ならなさ、できなさ」の抵抗的事態そのものが、言葉というものの支持体であり、言葉を存在させ変動させてきたと吉本は見ていた。
※語のレベル(文法レベル)で言えば、助詞などの、指示性が低くても、何かを引き起こすことができるものは自己表出性が高い語となる。
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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●12月15日から21日:言葉の表出、冬合宿2020
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