August 31, 2014

【言葉の記録1】梅田純平さん 第4回

第4回 はたと気付かされるわけですよ。俺はこんなことに腹立てるんかと

大谷:梅ちゃんにとっては演劇っていうものが自分の外側の世界と関わっていくもの?

梅田:今回はそうやったね。なんか、思わぬところでリンクする時があって。例えばこう感情移入をするというか、普段やったら泣かへんのに普段やったら腹たてへんのに。なんでここで泣いてなんでここで怒ってんねんやろうと演劇観ながら思う瞬間がある。その時、はたと気付かされるわけですよ。俺はこんなことを実は気にしてたんか。こんなことに腹立てるんか。

こないだ、一人芝居のトーナメントみたいなのを観に行ってて、決勝まで行って結果がでて1位をとった演劇があるねんけど、僕その話大嫌いで。絶対見たくなかったっていうか、なんやったら下ろして欲しかった。今でも嫌いやねんけど。嫌いやったて気付かされた芝居やってん。

内容が、ストーカーのお話なんですね。僕は今、なになにちゃんを見てるんです、彼女の姿を見ているだけで僕は心がときめきます、嬉しいです。あるときにバンパイアが現れて、あの女の子は生娘だから血を吸おう美味しそうだ。それを聞いた主人公でストーカーしてる彼が、危ないこのままではあの女の子は襲われて血を吸われてしまう死んでしまう。それは嫌だ。だから僕があの子のバージンを奪うんだって話に展開していくんです。

15分位の作品やねんけど10分位そのやりとりがあって。コミカルに見せるわけですよ、それを。だから笑えるねんね。笑えるんやけど。その女の子像ってのが終わり5分くらいでだんだんわかってきて。喫茶店に呼び出して、話をしているとなんか周りの人がちらちらこちらの方を見ているみたいな感じで。でも男は真剣やからその女の子に、怪しいのはわかっているんです、こんな気持ち悪い野郎やってこともわかってます、僕はでもあなたのことを守りたいんです。みたいなことを言うわけですね。

で、なんかしらんけどランドセルを背負ってたりとか。設定がわかってくんねん。女の子の。実は10歳の女の子。って話に俺むっちゃ腹たってしまって。いや人にはなかなか理解できひんのかもしれへんけど。

要は30超えたいい大人が10歳の女の子に喫茶店の中でまだセックスって言葉であったりとか、性に対しての意識なんてそれほど芽生えてない女の子に対して、あなたの処女を奪わして下さい僕にっていうようなやりとりがあって。あ、変な人やと思いますよね。とか言いながらでもあなたが狙われてるんですみたいなことを言ったりとかするやりとりが続くんやけど。結局叶わへんねんけどね。一回女の子はわけがわからへんけど、うん、っていっちゃうねん。で、やったーって喜んでるところに周りの大人達がよってきて。いや僕そんなつもりで言ったんじゃないです。僕そんなつもりで言ったんじゃないです。って女の子はちゃちゃっと帰っちゃうってところで。実はバンパイアってものも自分が勝手に想像して生み出したものやったりするんやけど。最後の方はまたその女の子をストーカーしますってとこで話としては終わった。

久しぶりに腹がたったんやけど、自分のなかでいわゆる未成年というか特に小学生の児童ポルノとかとつながってるんやけどを性的なものとしてみてしまうということが許されへんねやろな。自分の美的感覚、性的感覚として。そのばらし方も嫌いやってん。世の中的に10歳の女の子を狙うってのは犯罪じゃないですか。でそれをこう後半になってバラすっていう手法をとったっていうのも腹がたつし。もう僕の感情的には、演劇やのにこいつ警察呼んで捕まえてくれと。

大谷:その役者をってこと?

梅田:うん(笑)。でも、この作品1位取ったんやで。その作品が全部で二十何作品あるなかの1位とるわけですよ。でも僕の中では二十何作品のなかで最も評価低いわけですよ。腹たってるから。書いた奴出てこいくらい。どういう思いでお前、10歳の女の子をストーカーするということを面白いと思ったのか。何をもって描いたのか教えてくれと。その答え如何によっては俺はお前の作るものを一生観ないからなと思って。そういうことに気づくわけですよ。それはもう僕だけのものやけど。他の人はみんな評価高いわけやから。予想外やけどな。俺だけめっちゃ怒ってんねん。

他の人にその話をしたら、そこまで思わしてくれるんやったら梅田さんは術中にはめられたくらいのことが起きてますねと。

大谷:そういう意図ならば。

梅田:そういう意図ならば。もう最後、もっかいこいつストーカーし直すっていう時点でむっちゃ腹たってまた。もう死ねって思いながら。

自分にはない未知なものっていうか。自分のなかに既にあったものをほじくり出されるって感じはなかなか演劇ならではなのか芸術系のやつならではなのか。

大谷:そういう演劇を観ることは梅ちゃんにとっては楽しいことなの?

梅田:楽しいことやと思うよ。

大谷:あ、そうなんや(笑)。

梅田:そうそう。今は怒りで言ったけどね。

大谷:怒りで言ったよね(笑)

梅田:そうや(笑)。こいつら二度と見たくない。それがわかってよかったなっていう。そういう意味で感謝するよね。ありがとうと。ただ君らの世界は否定する。世にウケてると思って調子のんなよ。ははははは。

August 30, 2014

【言葉の記録1】梅田純平さん 第3回

第3回 人間の価値ってのは想像できる価値。それを証明してくれるものが演劇

梅田:文化って呼ばれるものとボランティアって、自分が認めたいものを認めたい、伝えたいものを伝えようとしたりって点で似通っている。特に運動系のボランティア活動ってのは非常に似通ってるなと。だから文化の衰退は、難しいねんけど、人間の価値が衰退していくというようなイメージ。

大谷:人間の価値?

梅田:想像することの素晴らしさみたいなものを、すごいやりながら思ってたんですよ。 

ないものをあるものとして扱う。単純な話で言えば。ここに「やかん」がありますって言ったらみんなやかんを想像するわけですよ。AさんのやかんとBさんのやかんは大きさも用途も違うかもしれへんけど。一つは鉄でできてるものかもしれへんしひとつはアルミで出来てるものかもしれへんけど、人ってのは想像して補っていって作り上げていく。演劇ってそういうものの積み重ねみたいなとこがあって、どんだけ想像してもらえるように環境を準備するかやねんね。

役者の言葉ひとつとっても、ここには机があっておそらくせんべいでも食べてるんでしょうなってのを勝手に想像してもらえるように作っていくってのがあって。

その想像ができるっていうのは人特有のものだろうなと。そこに価値がある。だから人間の価値ってのは想像できる価値やね。それを証明してくれるものが演劇のような気がしてて。それが面白くて演劇観に行ったりとかしてんねんね。

今回すごい共感したのは、わからないことをわかるってのがいいことですよねって話をしてて。わからないことをわからないままに置いておくことではなくて、私わかってないですねってわかることが重要な気がして。そっからわかろうとするかはまた別の話なんやけど。

大谷:自分はわかっていないという状態を自分がわかるってこと?

梅田:そうそうそう。想像する域がテリトリーが広がる。自分の。

例えばけんかしたとか、辛いことがあったとかやね。そんな時に、ふとあの時見た芝居にこういうシーンがあったな、今そういうシーンとそっくりな状況にいるな、あの時わからないと思ってたけど今やったら分かる気がするとかいう瞬間ってのがあるんじゃないかなっていう。

もうこれは想像やねんね。演劇を観ました。その演劇を観たシーンで自分でこんな想像をしていました。現実にそれが起きました。自分の中では成立してんねん。現実に起きてることとあの時みた芝居のつながりが。

嘘もんやってわかってるけど、一緒やねんね。それは多分想像してて。方法論とかじゃなくて自分のなかで想像していたものが起きて、それに対処する、対応するとかいうことがもしかしたらできるんじゃないかなって。

大谷:演劇で観ていた状態になったときに対処できるってこと?

梅田:でもその演劇を観てる時ってのはビデオで撮ったかのように観てないじゃないですか。自分の中の勝手なイメージもそこに付加されてるよね。付け加えられてて観てるよね。それとつながる。

映画でもそうかもしれへん。ゴジラって映画があって。あのゴジラがイコール自分の父親とつながったりとか。知り合いとつながったりするかもしれない。

その人が想像するものが付加されて現実とリンクするっていう場面があるんじゃないかなっていうのが最近思ってること。それが増えればいいなっていうのが、自分自身もそうやし、観てる人にとってもそうやし。それがなんらかの糧になればいいのかなって。

っていうのがこの前の演劇をやってて思ってたこと。自分が知らないってことが分かるとかっていう域にいけば、だから観た人が分からなかったですっていうのは自分の中で正解でもあるし、よかったなって思う瞬間ではある。

August 29, 2014

【言葉の記録1】梅田純平さん 第2回

第2回 死ぬってことは誰も経験したことないので

大谷:梅ちゃんがイメージしていた演劇の作り方ってのはどういう感じなん?

梅田:表現ってのは今まで自分が経験したことがないことを表現しないといけないことが多々ある。例えば死というものについて。死ぬってことは誰も経験したことないので、それを補うには他の人の死から想像するしかないよね。友達だったり、自分の親だったり、知り合いやね。その話をせんことに死について表現するっていうのは嘘っぽくなる。

天国はあるものだ。地獄はあるものだ。死とはかなしいものである。憂いのものであるとか。雨が降ってて欲しいとか。そういうイメージを補うものって経験とか予測、想像していく力やねんけど。その話をせんままに演技に入ることができるっていうのは嘘やなと思ってて。それがよくわかったんですよ。稽古してて。自分の中でそれをちゃんとそれを咀嚼して理解せんままにやるとそのまま観客に伝わるってのはようようわかった。

大谷:自分の中にはないわけや。

梅田:ないですよ。僕は、お医者さんの役とか店長の役をやった。けど医者やったことないし、お医者さんと触れ合う機会って自分が病気になった時だけ。自分の引き出しにはないんですよ。でもそれをどう補うかって思ったら、自分が会うてきたお医者さんであったりとか他人の中にあるお医者さん像を引き出すしかなくて。例えばそれは演出家からこんな風にしてくださいって言われたらこんなイメージのお医者さんなのかとか。最初はね、自分のイメージだけで一所懸命だそうとするんやけど。限界があって、無理なんよ。

大谷:無理って?

梅田:例えば、いろんな患者さんを毎日相手にしていて。その医者は、また変な患者が来た、検査やって言ってんのにまただだこねてはるはこの人。こんなことばっかり言われて嫌やわーって感じに作られていった役やねんけど。最初そんなん自分の中にはなくて。

追い詰められ感はなんとなくわかっててんけど、じゃあどんな風に追い詰められてんのかって想像で補うしかないわけやけど、自分では限界。で、稽古しながら教えてもらう。説明してくれんねん。こういうい言い方にするとこういう風に伝わりますとか。

最後の方によくわからん抽象的な表現をするんですよ。「フグがいっぱい泳いでる」って。フグがって何やと。

最初言われたんが、死体と思って下さい。死体がいっぱいあなたのもとに溢れてるんですよ。そういう感じでセリフは言ってみて下さいと。最終的に落ち着いたんが死体じゃなくていろんな患者さんからのクレームだと。相手してんのはその人一人やけど、おんなじこと言ってくる人物が何人も出てくるからと。そういう話をしていくなかでやっと自分の実生活とつながる瞬間とあって。

例えば腹割って話さん奴とかが自分の中で嫌いなやつやねんけど、そういう人たちと相対しているときとか。ああ、また来たわというイメージ。そういうやつがたくさんいる。で、またおんなじこと言われてるわ俺、ってのをつなげる作業になってたんやけど。自分の引き出しの中からね。

お医者さん関係ないねんけど。でもそうやって経験から補わないと表現できないことがあって。現実世界とのリンクが自分の中にないと上手いことできない。

じゃあ他の役者はどう思ってんのかなと。母になったことない人は自分の母親やまわりの母親っての中から補うしかないやろうし。その時に生まれている感情とか考えてることをどう表現するんかなってときに、それむっちゃ考えなあかんのに考えずに、なんか手法論に走る。

大谷:手法論?

梅田:声を大きくする。態度をでかく見せる。動きで見せる。そういった方法で、さも表現したかのように見せる。そういうのが上手い人もいる。怒りの表現はこんな感じです。悲しみの表現はこんなんです。こういうしゃべり方をすればさも怒っているかのように聞こえます。悲しみはこういえばいい。っていう方法論を求める。じゃあどうすればいい?みたいな。

大谷:どうすれば怒っているようにみえますかっていう?

梅田:そうそう。棒読みじゃなくて少し感情の起伏を付けてくださっていって。わかりましたじゃあここは怒っているように起伏付けますって言ってやれるわけですよ。ほーと思って。俺には無理やと。どこ行っても方法とその結果みたいなもので処理して、そこに至る感情のプロセスみたいなものは置いといてもできてしまうようなことは。

大谷:それ、大概の仕事に言えるよね。

梅田:そやねん。そやねん。そやねん。ははは。3回言うたけど。大概の仕事に言えるやろね。無機質よね非常に。

大谷:でも、演劇をやるのにそれがいいかってのは微妙やね。

梅田:表現するもの。音楽もそうやし美術もそうかも知れへんけど。表現をしていくものに対して方法論でいいのかっていうのは疑問になったのが今回の経験。

だから演劇を観る視点が変わってしまったなって思うのがそこ。この役者は本気でどう思ってやってんのかなってっところに観点がいっちゃう。美術に対してもそうやし、照明に対してもそうやし、ものに対してもそう。人に対してもそうなんやけど。

だってさー、馬鹿らしいなと思うわけよ。要は演劇では飯は食えないわけよ。どんだけ無機質にしようが方法論をとろうが。売れないんだから。

そうしたときにね。自分が表現したいもの。自分が見てきてない自分。今まで出会ってない自分。今まで出会ってきてない他の人達と出会いたいがためにやってると思ってきたわけ。

それを手法論や方法論とか、仕事チックにやっててええんかと。何が楽しいんやろと。そこがイコール金になるんやったらまあまあなっとくできるわ、俺。仕事としてここはやっときましょうと。無機質なものとしてやっときましょうと。ああ、ここらへんはボランティア活動とも非常に似通ってくるな。

August 28, 2014

【言葉の記録1】梅田純平さん 第1回

言葉の記録

人と話をするのが面白い。どこがどう面白いかというのは、その人、その時それぞれだから、ひとくくりにはできない。話、離し、放された言葉が少し景色を変えてみせる。そんな言葉の記録。事と場の記録。

小林けんじさんの「自分では、自分の考えてることを文字にするのが難しいから人に聞いてもらいたい」という言葉から生まれた企画。

August 20, 2014

【010】お金と計画と未来と安定、そして世界

素晴らしい空き地。囲いがない。
20年物ぐらいか。
昔々、明日はもちろん次の食べ物すらあるかどうかわからなかった。
たくさんあるときは人と分けた。ないときは人からもらった。
たいていは手に入り、そう困らなかった。
お金が現れた。
お金はいつまでも腐らず、いつでも食べ物と交換できる。
お金によって明日は明日の食べ物が、明後日は明後日の食べ物が手に入るようになった。
これが計画である。
計画によって明後日の次の日のこともその次の日のことも考えることができるようになった。
これが未来がである。
未来によって困難を予め回避できるようになった。
これが安定である。
安定と未来と計画とお金は、すべてつなぎ合わされたものである。

しかし、食べ物が手に入らなければやっぱり死ぬ。
病気になれば死ぬ。
事故にあえば死ぬ。
相変わらず僕は次の瞬間に死ぬかもしれないままでいる。
これが世界である。

August 16, 2014

【009】Twitterをやめてみると決めてからが長い

後回しにしがちなものナンバーワン。
退会処理。
もう長いことつぶやいていないし、そんなにタイムラインに興味もない。ので、やめてみることに決めた。

やめてみることにしたんだけど、すんなりやめられるわけではなくて、いや、手続き的には簡単なのだけれど、心理的に引っかかりがある。

そもそもなんでやめようかと思ったか。だいたいこういうのは別に退会しなくても、そのまま放置しておけばいいのだけど、僕はどうにもそういうことができない。使っていないもの、使うあてのないものを「所持」しているのがとてもしんどい。使っていないにもかかわらず使っていないことをずっと気にさせられてしまう。ツァイガルニク効果と似ている、というかそれそのものかもしれないけれど、本当にもう気になってしまってどうしようもない。

そんなわけで、実は結構長い間、しょっちゅう「もうTwitterやめよう」と思っては、心理的障壁に阻まれて退会しきれずにいた。いよいよこのままでいるのが面倒になってきて、その面倒さが退会する面倒さに匹敵してきたので、今こそ何が引っかかっているのかきちんと見てみようと思う。

まず、すぐに出てくるのが、過去の自分のつぶやきが消えてしまうことに対する残念さ。でもこれはそんなに大きくなくて、そもそも大したことつぶやいていないし、Twitterの設定画面を見るとアーカイブをつくってまとめてダウンロードができてしまう。ので、ダウンロードして普段見えないところに保存してしまってあっさりクリア。

次に、改めてタイムラインを眺めてみるとやっぱり結構面白い人がいて、そういうのをたどって見てしまう。見てしまうってことはそれなりに有用なんだから辞めなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。面白いからここまで流行ったわけで、これは結構手強い。でも、面白いと言ったって実はそれほど面白いわけではない。いや、面白いんだけど、それは個々のつぶやきの内容の面白さじゃなくて、バラバラなつぶやきがとても近い時間の間に次々と差し込まれてくるリアルタイム性にあるわけで、その面白さを享受するにはいつも使っていないといけない。Twitterが新しいのは、「現在を限界まで細かく微分すること(by芦田先生)」なので、そこから離れて、時々思い出したようにタイムラインを見てみるぐらいじゃぁ、Twitterの意味なんてない。ということで、これもクリア。

このへんまでは、「道具としての」必要性、不必要性の話だけど、次はちょっと違う。退会しちゃうとTwitterでしか繋がっていない知り合いと連絡がとれなくなってしまう、という不安が出てくる。これは道具の問題ではなくて自分の問題。具体的に顔が思い浮かびだすとなかなか厄介。連絡を取れない方がいい知り合いなんてほとんどいないから、いざ何かで必要になった時に連絡がとれないよりとれたほうがいいと思えてくる。だから少しでも可能性を残しておこうと考えだす。知り合いとのつながりはあればある程よいと思えてくる。これはTwitterだけじゃなくていろんな時に顔を出す「人のつながり資源論」で、僕の中では「またお前か」という感じの感情。

旧知の仲だから、ある程度付き合い方もわかっていて「たしかに人のつながりは強力で、とても役に立つ。だからみんなせっせとそれを求めるのだけれど、裏返しになればしがらみとなって逆に縛り付けてくるものでもある。だから常に有益なものではない。それに、有益であるためにはある程度のメンテナンスが必要。」というような感じで「必ずしも」で対抗することが多い。

でも、今回はもう少し考えてみようと思う。「必ずしも」で対抗しきれるなら、こう何度も出てこないはずだから。

だいたい、そもそも人のつながりを資源と捉えるのはどうなんだろう。以前の僕なら疑いなく「つながりは資源」と言い切っていたと思うし、もう少し突っ込んで、「お金よりも効率的な資源」とさえ言っていた。でも今は違和感がある。資源ということは、他人が自分にとって有益である、都合がいい存在であるということだと思うけれど、そういう人を僕は望んでいるのだろうか。

もちろん仕事なんかで、自分だけでは出来ない時に助けてもらうようなとき、他人はとても便利な資源に思える。しかし仕事を離れた時もそうなんだろうか。

僕が望むことをしてくれる人を僕は望んでいるのだろうか。

たぶん、違うんだと思う。ではどういう人を望んでいるのかというと、という問いを立てるとまたちょっとずれていく気がする。

たぶん、何も望んでいないんだと思う。こう書くと周りから人がいなくなってしまいそうだけど、根本的に、僕でない人が僕のために存在しているというのは気味が悪いと僕は思っているんだと思う。そういうしょうもないことと無関係に人はそれぞれ存在していて、その無関係なことがたまたま僕の望みというか僕の楽しさと合致するようなことを僕は望んでいるんだと思う。

僕が好きな人は僕のために存在しているんじゃなくて、まったく無関係に存在していて、それにもかかわらず僕がその人を好きになるということが素敵なんだと思う。

ということで、ほとんど利用していないTwitterでしか連絡が取れない人であっても、未来にたまたま何かが合致して連絡がとれたらそれは素敵なことで、不可能なことではない。

さて、これでほんとに「アカウントを削除」。

追伸:こういう発信ツール自体は結構興味あるので、必要になればまたアカウント取ります。

August 15, 2014

【008】コンポストに餌をあげる快感

コンポストの主要な餌をつくってくれる猫。
ちょっと変わった寝相。

庭にあるコンポスト、これがもうかわいい。緑色のプラスチックでできたやつ。ポータブルトイレみたいな、パックマンみたいな、上の蓋がパカっと開くやつ。

台所の生ごみ、コーヒー粕とか糠とか卵の殻とか野菜くずとか、あと、猫のうんことか猫のおしっこで固まった猫砂とか、そういうのをパカっと開いた口に放り込むと、次に開けた時には入れたものが少なくなっている。(うちの猫砂はおからでできていて、コンポストに入れても大丈夫なやつ。これに変えたのは正解。)

特に夏場は劇的にあっという間になくなっていく。コンポストがすごい食欲でどんどん餌を食べる変な生き物のように思えてくる。

いや実際、生き物で、口の中をのぞき込むとウジ虫がびっしりたかっていてウジウジゾワゾワとうごめいている。他にもいろいろ目に見えない奴らも含めて生き物たち。そういうのの集合体としての緑のコンポスト。普段は口が閉まっていて中が見えなくて、開けた時にお腹のすき具合が分かる感じも楽しい。

時々蓋を開けっ放しにして、うぞうぞと動いている大量のウジ虫をうっとりと見つめて、どんどん食べろよーと声を掛けたくなる。もうそれぐらいかわいい。

このかわいさ、愛しさは、洗濯物が乾くのと似ているし、育ててもいないのに毎年勝手に生えてくる庭のルッコラにも似ている。僕が一つひとつ何かをしなくても、どんどん勝手に進んでいく。最初にセットするだけで僕と無関係に物事が進んでいく感じは、ほんとに快感。

デヴィッド・リンチが大きなベニヤ板かなんかにジャムとかバターだったかで絵を描いて、それを何日も庭に放置して、ハエがたかったり、カビが生えたり、腐ったりしていくのをコマ撮りして喜んでいたのだけど(今調べたけどこの情報が見つからない)、きっと同じ快感。創造主の快感。

「費やし消える」ことの喜びとはこういうことをいうのであって、お金という数字と引き換えに物体がどんどん増えていくようなのはまったく逆で不快極まりない。

August 11, 2014

【007】枠組みを問い続けるのが好き

素敵なチラシ。
演劇のチラシってだいたい不思議だ。
友達の梅ちゃんがめでたく役者デビューということで、観てきました。森林浴『変身テトラポット』。

噛み合わないセリフ、交わらない視線、役者がト書きを読み上げ続けるなどなど、演劇として成立するかどうか、その演劇としてのベースを試す姿勢が面白かった。もう少しで分解してしまいそうな感じがするのが逆に演劇とは何かを考えさせてくれる。結局のところ、生身の人間のみずみずしさは強烈で、それだけで演劇を成立させうるかもしれないのだけど、そこに寄りかかりすぎないでいてほしいなと思う。

あと、自分で驚いたのは、イノセントな痛々しさをキャンセルできるようになったこと。ひょっとして僕はようやく大人になったのかもしれない。

うめちゃん、良かったよ。役者続けたらいいと思う。

あぁ、もっと演劇観たくなった。12月のチェルフィッチュ、神奈川まで行こうかな。

August 9, 2014

【006】「教育」の再発見の再発見

沖縄のぜんざい。
しばらく忘れていたけど写真を見ると食べたくなる。

仲間と講読ゼミをやっていて最初に読んだ本がパウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』。教育に対しては近からず遠からずな距離感で付き合っているけれど、この本を読んで今までの教育に対するイメージが変わったなと思った。

そして、そういえば以前、同じように教育についてのそれまでのイメージが変わったことがあったなと思って、それを書いたブログを読み直したら、結構面白かったので再掲します。

4年半前、僕はこの時フレイレの言うコード化、脱コード化をしていた。それは3歳児との対話によるものだ。3歳児に主体を認めていた。世界をほんの少し引き受けていた。

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2010年3月20日
「教育」の再発見

もともと散歩が好きなので、休みの日はなるべく3歳の長男と散歩に行くようにしている。子どもも散歩が好きなようだ。

数ヶ月前のある日、散歩中に子どもが何気なく、道端に落ちている汚いビニール袋を「ごみが落ちてるなぁ」と拾い上げた。いつから落ちているか分からないごみを素手で拾い上げる子どもの姿には、さすがに抵抗を覚える。「ばっちいから捨てなさい」という言葉が喉まででかかったが、なんとか飲み込んで「そうだなぁ。そのごみ、どうしようか」と問いかけてみた。すると「おうちに持って帰ってごみ箱に捨てよう!」と元気のよい返事。子どもにそう言われると「そうしよう」と答えるしかない。

しばらく歩くとまたごみが落ちていて、それを拾う。拾ったごみが3つになって、両手でもっていられなくなると「おとう、ごみ持って」といって差し出す。「汚いから嫌だ」とも言えず、僕はごみを受け取る。

一旦そういう目で見始めると路上にはごみが溢れていることに気づく。雨に濡れてアスファルトにへばりついたティッシュペーパー、土に埋れた煙草の空き箱、車に踏まれて潰れたコーヒーの缶、コンビニ弁当を包んでいたラップ、そんなものを次々と拾っていく子ども。たまたま持っていたレジ袋を渡すと、喜んでそこへ集めて行く。

こういう状況にたいして「子どものしつけがきちんとできている」と思うかもしれない。「親のいうことを守ってなんて利口な子どもだ」と思うかもしれない。しかしそれは間違いだ。なぜなら我が家では一度たりとも「道に落ちているごみを拾いなさい」と教育したことはないし、子どもの前で親が道端のごみを拾ってみせた覚えもない。

もともと我が家は平均的な家庭よりも「ごみはごみ箱へ」のしつけはゆるいと思う。我が家を訪れたことがある人ならわかると思うが、ごみなのかそうでないのか曖昧なものが家中にかなり散らばっている。それにも関わらず長男はなぜ道端のごみをせっせと拾うのか。誰にもそんなことを教えられていないのに。このことは僕には大きな謎だった。

この謎につながるヒントを僕は別の方面から知ることになる。

昨冬、映像職人の神吉良輔さんの手伝い※で、大阪の労働者の街・釜ヶ崎で行われている子どもが中心となった「子ども夜まわり」活動に同行した。野宿での冬はとても厳しく、時には死者が出ることもあるため、それを防ぐために野宿者に声を掛けて体の具合をきき、おにぎりや味噌汁、毛布などを配る活動だ。子ども夜まわりというぐらいだから、主に小学生が行う。「なぜ、子どもが野宿者支援をするのか?」と疑問に思うかもしれない。それには訳がある。

釜ヶ崎の「子どもの里」という児童福祉施設が子ども夜まわりを始めたきっかけは、1983年に横浜・山下公園で起きた複数の少年による野宿者殺害事件である。このような襲撃の加害者の多くが、実は中学生・高校生の男子生徒だ。子どもたち自身が野宿者と話をすることによって、人としての存在に気づき、襲撃を減らすことが子ども夜回りの目的である。

しかし、襲撃をしてしまう少年たちもまた、家庭や学校で「優秀でなければ生きる価値がない」という優勝劣敗の価値観を強いられた「しんどい」状態に追い込まれていることがわかっている。そのはけ口が野宿者へと向かうのだ。

加害少年へのインタビューによると「社会のごみだから駆除した」という衝撃的な言葉が出てくる。彼らは野宿者を人としてではなく、社会のごみとして、認識している。実際に生きている人をそのように認識することは、もちろん簡単なことではない。いったいどういう過程を経て、彼らはそのような認識に至ったのか。

もっとも直接的な理由は、野宿者を見つけた子どもにたいして親が「近寄ってはいけません」と注意することだろう。そう言われた子どもは、同じ人間なのに、近寄ったり口を聞いたりしてはいけない存在があるということを学ぶ。

さらに、釜ヶ崎の街を歩くといやでも目に付く奇妙な物体もこの認識に一役買っている。例えば、通常、車線を区別するために列状に設置されるオレンジ色のポール。それが、まるでつくしの群生のようにびっしりと隙間なく路肩の一角に生えていたりする。その場所に野宿者が寝られないようにするためだ。また、小学校の塀の上に張り巡らされた水道管は、毎朝そこから放水し、壁際に寝ている野宿者を排除するためにある。公園のベンチの形状が複雑になり、単純な3人がけのものがなくなっているのも同じ理由、つまりそこに寝ることができないような「工夫」が施されているのだ。これらの物体の意味を子どもたちが知ったとき、彼らは何を学ぶだろう。

そもそも、何も知らない子どもにとって、路上で寝ている人というのはかなり奇妙な存在にうつる。しかし多くの大人は野宿者を完全に無視し、その横を通り過ぎる。それを見た子どもはどう感じるだろう。

当たり前だが、最初から人をごみとして認識するような子どもはいない。子どもたちは最初、野宿者を「人として」見たはずだ。しかし、多くの大人が、人として異常ともいえる状態にある野宿者を、風景として無視し、その状態で放置し、それどころか排除している。子どもたちは、野宿者を「人ではないごみとして扱うように」多くのおとなの「草の根差別意識」によって「教育」されたのだ。

僕は、「これをしたらよい。これをしたら悪い」と、学校や家庭で行われる明示的な指導が「教育」だと思っていた。しかしそうではなかった。社会の至る所で、僕を含む多数のおとなたちの、多くの場合は消極的で無自覚とも言える行為によって「教育」はなされるのだ。

僕の子どもが道端のごみを拾うのは、「ごみを拾いなさい」と教育されたからではなく、単に、道端のごみなんて放っておけばよいということをまだ「教育されていないから」に過ぎない。やがて、ごみを拾い続ける自分の横を無関心に通り過ぎる多くのおとなたちの存在に気がついた時、彼は拾う事をやめるはずだ。

僕たちはだれもが教育者であり、どの瞬間も多くの子どもたちを教育し続けている。


※神吉さんのお手伝いをして制作した映像はこちら。
 『教材用DVD 「ホームレス」と出会う子どもたち

August 8, 2014

【005】この「わかるわー」、わかるわー

リフォーム中の部屋。
中身が見えている感じ。

寝太郎さんのブログのこのエントリー、わかるわー。

僕も自分の書いた文章に対して、「そうそう!」と膝を叩きたくなるし、「うまいこと書くなー」と感心したりする。この「わかるわー」が、吉本隆明の自己表出なんじゃないかと思う。

自分が好きなのではなくて、自分の考えていることがそのまま書かれていることが好きなんだな。

August 7, 2014

【004】食材は室温に戻してから使う

巨猫(きょねこ)の「しっぽ」。
巨大。

料理は好きだ。お腹が減ってどうしようもなくなったり、食べたいという欲求は定期的にやってくる。それに対して気持ちいいぐらい有効な手段だから料理は好きだ。何を食べたいのか自分に聞いて作るのが好きだ。作っている間はとても建設的な気分で、皿を洗ったりする作業もはかどるし、段取りよく物事が進む。作り始めてしまえば何も考えることないからとても楽。今の僕の生活の中でこういう時間はあまりないから余計にスムーズにいろいろなことが進む。

その料理、最近分かりかけてきたのだけれど、特別にそうしているのではない限り食材を室温に戻してから使うのが良いと思う。

そういうことを初めて明確に意識したのはチャーハンを作るときで、要するに中華鍋の温度をいかに下げないかがポイントだから、玉子は冷蔵庫から早めに出しておいたほうが良い。

我が家はベーコンをよく使うのだけれど、ブロックを冷凍保存している。カルボナーラを作る時なんか、面倒なのでそのまま切って鍋に入れてしまうんだけど、しっかり解凍したほうがうまくいく。

だいたい100年ぐらい前(適当です)までは冷凍庫や冷蔵庫なんてなくて食材は全て室温にあったはずだから、きっとこれは正しいと思う。もっとも、室温が冷蔵庫より下がることもなくはないけど。

August 6, 2014

【003】「ともに」と「ために」

大阪で一番好きな場所。
安心して他人とともにいられる。
「ともに」ということを考え始めるといつもどんどん空白になっていく感じがする。目の前にいる人と「ともに」ではなく在ることなんてそっちのほうがどういう状態なのかわからなくなって、だからどんどん「ともに」が透明でつるつると引っかかりのないものになっていって、行き着く先がなくなってしまう。こういうのは厄介でうまく説明できない。説明できないとこうモヤモヤしたままで、ふとまた「ともに」を考え始めてしまう。

でも、いつもいつも考え続けているとあるときふっと湧き出ることもあるもので、「ともに」の反対は「ために」かもと思いついた。間違えているかもしれないけれど、ここに書いておこうと思う。例えば「相手のために」行動したり、在ったりすることは「ともに」とは少し違う。「自分のために」でも同じように違う。相手と自分の間に垣根ができて、立場に違いができる。

自分と相手の同じ目標の「ために」であったら、確かに自分も相手も同じ立場になるけれど、自分も相手も目標に従属する感じが出てきて、「ともに」が小さくしぼんでしまう。生き生きとした「ともに」は何かの「ために」あるわけではなくて、もともとそこにあって、だから「ともに」は僕達と「ともに」あるんじゃなかろうか。 そんなこんなで「ともに」を考え続けて、つまり「ともに」を考えることと「ともに」在り続ける。

August 5, 2014

【002】ちょっと足りないがちょうどいい

「しろ」もこの春から我が家の一員。
同じく破壊的なかわいさ。

何か事務作業を一緒にしていて、糊とかペンとかそういう類の文具がちょっとだけ足りなかった時に、友人のけんちゃんがポロッと漏らした言葉。だったと思う。

「資源はちょっと足りないぐらいがちょうどいい」

最初は割りとすっと聞けてしまう言葉だけど、「足りない」と「ちょうどいい」の矛盾に引っかかってちょっとおもしろい。でもフレーズ全体を聞いた時の感覚では「その通りだな」と引っかかりなく思えていたなと不思議になる。

だからつい、その理由を考えていくことになる。すると資源の不足や過剰というレベルの話と「ちょうどいい」ということのレベルが異なっていることが見えてくる。「ちょうどいい」の対象と範囲は資源の過不足ということよりもずっと高いところにあって、もっと広く覆っている。

資源といった時には、目の前にある固有の具体的な「この」資源についてだけれど、「ちょうどいい」というのはもっと広くて世界中に響き渡る声としてある。

一枚ずつ玉葱の皮を剥いていくように、何かがその時々で少しずつつかまえられるようないい言葉だと思う。

August 4, 2014

【001】やっぱりいつだってなんだって

今年の春に我が家にやってきた「ちび」。
もう破壊的にかわいい。
がむしゃらに何かをするということがなくなってきて、一つひとつ確かめるような感じになってきて、ようやく元に戻ったという意味で「やっぱり」書くことが好きで、だからここからまた歩き始めてみよう。

だいたいもうどこにいても楽しもうと思えば楽しめるし、だいたいなんでも面白い。子供の頃、何がそんなにおかしかったのか全く思い出せないけれど、なぜか友達とゲラゲラ笑い続けていて、一つひとつのことがおかしくおかしくて、おかしいことまでおかしくて、そんなことがあったけれど、ひょっとしたら今またそんな感じの面白おかしいことがあの時ほどの密度ではないけれど、だから一つひとつ確かめられる速度で沸き起こってきている。

不安やイライラや悲しいやもどかしいまで楽しくおかしい日々が面白くてしょうがない今。