第2回 死ぬってことは誰も経験したことないので
梅田:表現ってのは今まで自分が経験したことがないことを表現しないといけないことが多々ある。例えば死というものについて。死ぬってことは誰も経験したことないので、それを補うには他の人の死から想像するしかないよね。友達だったり、自分の親だったり、知り合いやね。その話をせんことに死について表現するっていうのは嘘っぽくなる。
天国はあるものだ。地獄はあるものだ。死とはかなしいものである。憂いのものであるとか。雨が降ってて欲しいとか。そういうイメージを補うものって経験とか予測、想像していく力やねんけど。その話をせんままに演技に入ることができるっていうのは嘘やなと思ってて。それがよくわかったんですよ。稽古してて。自分の中でそれをちゃんとそれを咀嚼して理解せんままにやるとそのまま観客に伝わるってのはようようわかった。
大谷:自分の中にはないわけや。
梅田:ないですよ。僕は、お医者さんの役とか店長の役をやった。けど医者やったことないし、お医者さんと触れ合う機会って自分が病気になった時だけ。自分の引き出しにはないんですよ。でもそれをどう補うかって思ったら、自分が会うてきたお医者さんであったりとか他人の中にあるお医者さん像を引き出すしかなくて。例えばそれは演出家からこんな風にしてくださいって言われたらこんなイメージのお医者さんなのかとか。最初はね、自分のイメージだけで一所懸命だそうとするんやけど。限界があって、無理なんよ。
大谷:無理って?
梅田:例えば、いろんな患者さんを毎日相手にしていて。その医者は、また変な患者が来た、検査やって言ってんのにまただだこねてはるはこの人。こんなことばっかり言われて嫌やわーって感じに作られていった役やねんけど。最初そんなん自分の中にはなくて。
追い詰められ感はなんとなくわかっててんけど、じゃあどんな風に追い詰められてんのかって想像で補うしかないわけやけど、自分では限界。で、稽古しながら教えてもらう。説明してくれんねん。こういうい言い方にするとこういう風に伝わりますとか。
最後の方によくわからん抽象的な表現をするんですよ。「フグがいっぱい泳いでる」って。フグがって何やと。
最初言われたんが、死体と思って下さい。死体がいっぱいあなたのもとに溢れてるんですよ。そういう感じでセリフは言ってみて下さいと。最終的に落ち着いたんが死体じゃなくていろんな患者さんからのクレームだと。相手してんのはその人一人やけど、おんなじこと言ってくる人物が何人も出てくるからと。そういう話をしていくなかでやっと自分の実生活とつながる瞬間とあって。
例えば腹割って話さん奴とかが自分の中で嫌いなやつやねんけど、そういう人たちと相対しているときとか。ああ、また来たわというイメージ。そういうやつがたくさんいる。で、またおんなじこと言われてるわ俺、ってのをつなげる作業になってたんやけど。自分の引き出しの中からね。
お医者さん関係ないねんけど。でもそうやって経験から補わないと表現できないことがあって。現実世界とのリンクが自分の中にないと上手いことできない。
じゃあ他の役者はどう思ってんのかなと。母になったことない人は自分の母親やまわりの母親っての中から補うしかないやろうし。その時に生まれている感情とか考えてることをどう表現するんかなってときに、それむっちゃ考えなあかんのに考えずに、なんか手法論に走る。
大谷:手法論?
梅田:声を大きくする。態度をでかく見せる。動きで見せる。そういった方法で、さも表現したかのように見せる。そういうのが上手い人もいる。怒りの表現はこんな感じです。悲しみの表現はこんなんです。こういうしゃべり方をすればさも怒っているかのように聞こえます。悲しみはこういえばいい。っていう方法論を求める。じゃあどうすればいい?みたいな。
大谷:どうすれば怒っているようにみえますかっていう?
梅田:そうそう。棒読みじゃなくて少し感情の起伏を付けてくださっていって。わかりましたじゃあここは怒っているように起伏付けますって言ってやれるわけですよ。ほーと思って。俺には無理やと。どこ行っても方法とその結果みたいなもので処理して、そこに至る感情のプロセスみたいなものは置いといてもできてしまうようなことは。
大谷:それ、大概の仕事に言えるよね。
梅田:そやねん。そやねん。そやねん。ははは。3回言うたけど。大概の仕事に言えるやろね。無機質よね非常に。
大谷:でも、演劇をやるのにそれがいいかってのは微妙やね。
梅田:表現するもの。音楽もそうやし美術もそうかも知れへんけど。表現をしていくものに対して方法論でいいのかっていうのは疑問になったのが今回の経験。
だから演劇を観る視点が変わってしまったなって思うのがそこ。この役者は本気でどう思ってやってんのかなってっところに観点がいっちゃう。美術に対してもそうやし、照明に対してもそうやし、ものに対してもそう。人に対してもそうなんやけど。
だってさー、馬鹿らしいなと思うわけよ。要は演劇では飯は食えないわけよ。どんだけ無機質にしようが方法論をとろうが。売れないんだから。
そうしたときにね。自分が表現したいもの。自分が見てきてない自分。今まで出会ってない自分。今まで出会ってきてない他の人達と出会いたいがためにやってると思ってきたわけ。
それを手法論や方法論とか、仕事チックにやっててええんかと。何が楽しいんやろと。そこがイコール金になるんやったらまあまあなっとくできるわ、俺。仕事としてここはやっときましょうと。無機質なものとしてやっときましょうと。ああ、ここらへんはボランティア活動とも非常に似通ってくるな。
(第3回へつづく)