August 2, 2017

【397】「言語4」できました。

久しぶりのブログ更新です。ネット環境が低速になってから、ブログを書いたり、Facebookを見たりというのが激減しました。



「言語4」は、吉本隆明「言語にとって美とはなにか」を読む、という特集を組みました。僕と小林健司さんが、言語美について話した11時間分を再構成しています。5万字ほどあります。6月から7月にかけて、この特集原稿にかかりっきりでした。なんとか形になったのは嬉しい限りです。
言語のウェブサイトから注文できます。よろしければ。
https://gengoweb.jimdo.com/


May 21, 2017

【催し】吉本隆明で遊ぼう。もしくは『言語にとって美とはなにか』を読む講座合宿。

吉本隆明についての講座を、それも『言語にとって美とはなにか』をもとにして、やってやろうという、大胆なことを企画しています。

僕たちが、言語が面白くてしかたない、と思うようになったのは、この『言語にとって美とはなにか』をゼミで読んだからです。おかげで僕たちは毎日毎日、言語で遊び惚けるようになりました。寝ても覚めても。他のことがろくに手に付かない。他のことと思っていてもどこか言語に結びついている。それどころか、それって言語そのものじゃないの、とすら思ったりするようになりました。

言語という場所は、広い場所です。そこで僕たちはいつも思いっきり遊んでいます。面白いことが次々と起こり、それまで面白いと思っていたことが、実はもっと面白かったのだと気づきます。やればやるほど広くなる場所。やればやるほど、もともと広かった場所。この場所で、とことんやるのは幸せです。

そんな場所へもし誰かを連れて来れるとしたら、僕たちとともに勝手に遊んでくれる人が増えるとしたら、いったいどんなことになるんだろう。そう思いついて、この企画をやってやろうと思っています。

僕たちなりに吉本隆明で思いっきり遊びます。上手にとか正しくとか、そういうことはさほど気にせず。あわよくば、吉本隆明が遊び得なかった遊びをしてやりたいとも思っています。

吉本さんも、とともに勝手に遊んでくれるはず。

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吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読む講座、合宿で。

日時▼2017年6月10日(土)、11日(日)
 導 入:10日11時から12時
 第1回:10日13時半から15時半
 第2回:10日16時から18時
 第3回:11日10時から12時
 第4回:11日13時半から15時半
 第5回:11日16時から18時
 懇親会:両日夜。ごはんを食べながら。


場 所▼まるネコ堂
講 師▼小林健司・大谷隆
内 容▼講師のガイドと参加者との質疑などを通して吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読みます。
定 員▼8人
持ち物▼『言語にとって美とはなにかⅠ・Ⅱ』
受講費▼2万円
宿 泊▼会場(まるネコ堂)で宿泊。「通い」も可ですが、宿泊をおすすめします。
※猫がいます。講座中は会場には入れませんがアレルギーの方は相談ください。

講師紹介▼
●小林健司(こばやしけんじ)
愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。その後、東日本大震災の復興に関連したソーシャルビジネスの創業支援等をする NPOでの勤務を経て2012年独立。2014年から2016年の2年間、パートナーのなっちゃんとの結婚を機に、「fenceworks」の一員としても活動する。​
​2016年11月、滋賀県北比良にセルフビルドで建てたログハウスを拠点に、雑誌「言語」の執筆、「読む・書く・残す探求ゼミ」、人と人の間に生まれる企画「ゆくくる」、などを行う。​
・小林健司のブログ「ことばか日記」 http://hitotookane.blogspot.jp/

●大谷 隆(おおたにたかし)
京都府宇治市出身。読んだり書いたりできる空き地として言葉の場所「まるネコ堂」代表。CSRレポート制作会社の編集部門、NPOの出版部を経て2010年5月フリーランスの編集者として独立。寄ってたかって本を読む「まるネコ堂ゼミ」、「読む・書く・残す探求ゼミ」等を行う。
独立後、手がけた編集物には、雑誌「言語」、「CARAPACE(キャラペイス)」(ウェブサイト)、イスの積み木「てるぺん」(ウェブサイト)などがある。

​・まるネコ堂 http://marunekodoblog.blogspot.jp/

May 17, 2017

【396】音がなくなるとき。

そう言えば最近夕日を見てない。いや見てる、と思うのだけど、あの夕日を見ていない。うちの庭からちょうど真正面に見えるあの夕日を見ているときのあの圧倒的な感じをしばらく感じていない。感じたという感じがそう言えばしばらくしていない。

あの感じを思い出す。あれはどうなっているのか。あのときの僕はどうなっているのか。

よく圧倒的な場面に遭遇したときに「言葉を失う」という慣用句を用いるし、実際何かをしゃべろうという感じ自体がないのだけれど、もう少し僕なりに言うと、あのとき僕は、音がない。

音が聞こえないのではなくて、音というものが最初からなかったかのように、音を聞くということそのものがない。このとき、見えているものが通常であれば必ず伴っているはずの、遠近も喪失している。

だから、あの夕日を見ている僕は、音がなく、なおかつ、見えているあの夕日との遠近がない。

これはあるいは逆なのかもしれない。あの夕日の圧倒が僕と夕日との遠近を消失させることで、音というものが消えているのかもしれない。あるいは遠近と音は同じものなのかもしれない。

いずれにせよ、あの夕日を見ているとき、僕はたぶん超越の扉を開けている。

超越というのは、この世界の外ということだけれど、僕にとって僕の世界の外に空間的に移動するということは、イメージとしてなかなか持ちにくい。でもこう考えるとわりとイメージしやすい。

超越というとき、そのとき僕の世界は、いつもの僕の世界とは、世界まるごと変質してしまう。概念的には、この時、僕だけが僕の世界から乖離しているわけだから、これをうまく言い得る言葉として、超越は、それほどは間違っていない。

ふいにもとに戻ると、途端に音でこの世界は満たされてしまう。あっという間に水位が上がって、地の底から空の上まで一気に音で満たされてしまう。水圧のような音の圧力を感じて、あぁ戻ってしまったという気になる。空気があるということを感じる。空気を通して振動が伝わってくる。

あの夕日を見ているときのあの感じとそういえば同じ感じだと思うのが、集中して書いているときだ。書けているときと言ったほうがいいかもしれない。

パソコンに向かってキーボードを叩いているときがずっとそうなのではなくて、そのうちの、ほんのすこし、断続的なその「とき」がある。声を翻訳するように文字にするのではなくて、声を経由せずにただ書かれたものが現れるような感覚がある。音がないから。このとき僕は、書いているものや書こうとしているものとの合一の一端に、ほんの一端だけど、触れているのだと思う。

宗教的合一あるいは信仰的合一と言っているのはつまりこういうことで、この程度のことで、これほどのことだ。

少なくとも僕にとってここに歴史や思想や意義や正しさや安らぎや伝統や古さや新しさや生や死が入りこむことはない。ただ僕が僕の世界から乖離している。

April 19, 2017

【395】低速ライフ満喫中。

3月末に自宅のADSLを解約しました。今はfreetelのSIMです。普段は「節約モード」にしていて(速くて)200kbps。時々、必要なときに節約モードを解除して使ってます。というわけで、とたんにブログ更新もフェイスブックも滞ります。

まぁ、こういうものだと思っていて、これで何か都合が悪いかというと、ほとんどありません。いざというときに高速化できるという選択肢があるのは、僕にはとても使い勝手がいいです。

MacBook Airは、ほぼワープロ専用機状態で、開くことのない日もあります。ネットが高速だったときは、一日中触っていたこともあったのに。そこそこ高速のネットという、なければないでなんとかなるものが、インフラとしてあるということの威力というか影響力を思い知ります。そういえばテレビを見なくなった時期も、こんな感じの気分を味わって楽しんでいた気がします。もう遠い昔のことです。

で、最近はなにをやってるかというと、ずっと書きたかったと思えるようなものを少しずつ書いています。ずっと書きたかったと思うのは書けた部分に関してで、まだ書いていないところについては、それがずっと書きたかったのかはわかりません。幸せです。これ。

職業ライターとして、せっせと作文というか売文というか、そういうことをやっていたときは、書けないことに必死だったというか、書けないことに苦しんでいたというか、書けないことに焦点があっていて、書けないということに頑張っていました。

今は、書くことにやっていて、書くことでの苦しみというか、書くことに必死というか、書くことに頑張っています。

同じじゃないのかと思われるかもしれませんが、少なくとも僕にとっては全然違っていて、やっぱり後者の方が幸せです。

閉まっている扉を叩いたり引っ張ったり、扉が閉まっていることで生じることに力を注いでいたのが、扉が開いているということで生じることに力を注いでいる感じです。

扉が開いていることで生じる困難や危険は、扉が閉まっていることで生じる困難や危険とは全く違っています。

扉が開いていると、例えばひたすら悪夢を見続けるとか、一番悲しいことをしょっちゅう思い出すとか、何をやっていても今この瞬間にどこかで大切なものが自分を通り抜けていってしまっているのではないかとか、そんな不安がつきまといます。そんな状態で、でも何かをやるとなるとどうしても、こんなことが一体何になるのかという危惧が消えなくて、こんなたわいもないことをやっていてどうなるのかと思っています。

でも、まぁ、こういうものです。

March 14, 2017

【394】ドラマ『99.9 刑事専門弁護士』。仲間とは何か? もう一つの痛快さ。

ドラマ『99.9 刑事専門弁護士』を観た。

例によってけんちゃんが面白いと教えてくれた。
とても面白かった。けんちゃんはいつもいい仕事をする。

「有罪率99.9%という刑事裁判を専門とする弁護師たちの物語」であり、当然主たるテーマはこの高い数字の不自然さ、異常性、その原因である検察の腐敗を描いているのだけれど、僕にはもう一つのテーマが隠されているように見える。このテーマが僕には優れて現代的に思えて、それがとても面白かった。

主人公である深山たちは斑目法律事務所に新設された刑事弁護専門チームに所属している。と一口に言ってしまえるほど実はこの「チーム」、普通ではない。深山はもちろんその上司にあたる佐田も立花という同僚も、言ってみればいわゆるチームプレイはしない。佐田が馬主でもあるほど競馬好きなことを比喩に、チームメンバーは競馬馬に喩えられることが多いが、この馬たち、常にそれぞれまったく別々の方向を目指して走っている。あるいはお互いに競っている。

中でも「僕は事実が知りたいんだ」という深山は「依頼人の利益などどうでもいい」と言い捨て、逆に「依頼人の利益こそ最優先すべきだ。事実などどうでもいい」という佐田と終始衝突し続ける。佐田役の香川照之は僕の好きな役者だけれど、今回もとてもいい。深山に対するイラツキを隠さない佐田の演技は絶品だ。この演技のお陰で、このチームがいかに一般に言われる「チーム」や「仲間」というもののあり方からズレているかが描けている。

この「佐田ファーム(馬主であることから)」に対して、敵役の検察はどう描かれているか。組織として一体であり、一丸となって「正義」を貫くという看板を掲げてはいるが、内部的には上司の顔色を伺い続けた挙句事実を捻じ曲げ、冤罪被害者を生み出している。検察チームメンバーたちの関心は事件そのものよりもドロドロした人間関係に集中し腐心し続けているように見える。その結果、組織も腐敗している。

つまり「チーム」や「仲間」というものの描き方が正反対になっているのだ。

そして、有利な立場にもかかわらず、組織を挙げて一丸となっている検察チームは、それぞれがバラバラに走り回る佐田ファームに負け続ける。

このドラマの制作者が設定したもう一つのテーマはここだと思う。

チームとはいったい何か。
仲間とはいったい何か。

この着眼点が優れて現代的だと思う。言うまでもなく、組織や仲間内、ひいては社会の中で他人の顔色を伺い続け汲々とせざるを得ない「絆社会」の姿を鋭く描いているように僕には思える。

「絆(きずな、きづな)は、本来は、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱。しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。」(ウィキペディア

馬だけに絆とは、うまいね。エヘッ、エヘヘ。
5点。

制作者はたぶんこう言いたいのではないだろうか。

チームや仲間、組織、社会、そういったものは本当は佐田ファームのようであってもいいのではないか。それぞれがそれぞれの利益を求め、100人いたら100通りある別々の信念を追い、ただ自分自身を使って一つひとつのことを確かめていく。仲間やチームや組織を接合させる人と人との絆の強さを前提にするのではなく、全く異なった一人ひとりの人間自体を前提としそれらが触れ合うことで成立するチームや仲間だってあるのだ。そういうチームや仲間こそが本当なんじゃないの。何よりそっちの方が強かったりするんだよね。

と。

いやぁ、とても面白い。
つうか、痛快? エヘッ、エヘヘ。


March 9, 2017

【393】『この世界の片隅に』は「反戦映画」ではない。

決定的なネタバレを含みます。

この世界の片隅に』を観た。

終盤のあるシーンまでとても良いと思った。これは良い映画を観たと、あとで思うだろうなと思って観ていた。しかしそうではなかった。

問題のシーンの直前のシーンはこうだ。

すずと周作が原爆が落ちて焼け野原となった広島市内の橋の上にいて、その後ろを「バケモノ」が通り過ぎていく。「バケモノ」の背負う籠からワニが顔を出す。

このシーンで映画は終わるのだと思った。ここで終わって、この映画は、原爆以前の広島の日常を丁寧に描いた貴重な記録映画として、一人の女性の普通の生活と戦争という大きな流れが同居する物語として、完成されると思った。

しかし、終わらなかった。

問題のシーンはその直後に来る。ある母子が被爆し、壮絶な生死としてわかたれる。このシーンのカメラの視点は、突然挿入された未知の視点だ。それまで物語中に登場した誰の視点でもなく、またそこに描かれている母子もそれまで物語中に登場した誰でもない。

僕はこのシーンに強烈な違和を覚えた。この後、この孤児がすずと周作に出会い、二人とともに呉へと行き、北條家の一員として迎えられ物語が終了していく展開を、だから僕はほとんど冷静に観れていない。エンドロールでこの子が成長していく様を観ながら、行き場のない憤りでほとんど震えそうになっていた。

いったいあの子はなんなのだ。

あまりに唐突すぎてついていけない。監督はいったい何がしたかったのだ。

もしもこうなら話は早い。時限爆弾で爆死した晴美の喪失に対して、その母親である径子の悲しみが十分に回収できていない。だからその回収のために孤児が必要だった。あるいは、原爆を描いた映画であるにも関わらず、原爆の描写のインパクトが今ひとつだった。だから凄惨さを追加した。

こういう理由で「橋」以後のシーンを追加したというのであれば、何の事はない失敗だ。もっとうまくやる方法はいくらでもある。あの唐突さで付け加える必要性はない。

しかし、そうなのだろうか。その直前のシーンまで、これほど見事に積み上げてきた映画がそんな失敗をするだろうか。そんなはずはないんじゃないか。ではいったいなんなのか。それがわからないまま、僕の目の前で映画はあっさりと終わってしまう。そのことに僕は憤っていた。

映画館を出て、階段を降り、一緒に見ていた澪と近くのマクドナルドへ行き、いったい何だったのかという話をしだして、ようやく僕は落ち着いてきた。そして、結果としてあのシーンはただのやり損ねた追加ではなく、この映画全体の大きなチャレンジに気づかせるための重大なシーンだと思うようになった。そう思ったとたん、映画中の幾つかのシーンが蘇った。

玉音放送を聴いたすずが猛烈に怒る。最後の一人まで戦うと言ってたじゃないか。だから自分も必死に戦ってきた。それが勝手に負けたとはどういうことか。ここにまだ5人いるじゃないか。地面に突っ伏して大粒の涙をぼろぼろと流す。

この映画は終始すずの視点で描かれている。そのすずはごく普通の女性としてごく普通に戦争中の広島に生きている。ぼーっとしたところはあるけれど、とても優しくとても魅力的なすず。そのすずがそう怒っている。最後の一人まで戦うことを信じて生きていたのだ。

僕たちはともすると、戦争中の一般人は権力層の暴走の犠牲になったと思いがちだ。もっと直接的な言い方をすると「騙されていた」「洗脳されていた」と。だとすれば、このすずはその典型になってしまう。

また、物語中、時折、年月日が入る。それが現れるたび、観ている僕たちはある予感が生じる。広島という場所が暗示する「ある日の出来事」に向かう予感。世界史に刻み込まれるある出来事。年月日のテロップはそれへ向かう物語上のメタファーとして機能してしまう。

しかし、物語中のすずたちにとって、その年月日はただとにかく毎日を生きていくことの連続の結果に過ぎない。増えていく空襲警報の記録文書は、すずたちにとってはただ起こったことを書き留めたものにすぎない。だれも、いずれ訪れる壊滅的な出来事を予感してはいないのだ。

この映画の描写は、とても注意深く史実を追うことで、すずたち登場人物の視点に懸命にとどまっている。それなのに、観ている僕たちはどうしようもなく「運命の日」への途上として観てしまう。僕達が「原爆」と呼ぶその出来事以前の日付としてテロップを観てしまう。

日常が描かれているだけに過ぎないのに、僕たちはある未来の決定的な出来事から逆算するように観てしまう。感じてしまう。何も知らない純朴なすずたちに哀れなフィルターを掛けて「モノクロ」の画像として観てしまう。

どうしてそう「観てしまう」のか。暗示として「感じてしまう」のか。そのこと自体をこの映画は問おうとしている。僕達が戦争中のこの場所を薄暗いフィルターごしの景色として見てしまうのはどうしてなのか。

もし軍部の暴走を防げていれば、もし列強とうまく折り合っていれば、もしもっと早く講和が成立していれば、もし・・・。

こういう仮定の不幸な選択の連続によって、日本という国はあの悲惨な戦争に突入し、悲惨な結末に行き着いたのだと、僕たちは思いがちではないか。つまり、もっと賢ければよかった。もっと周りを見れていればよかった。なのにそれができなかった。それができない不幸な時代の不幸な人々だった。だからあんなことになったのだ。と。

しかし、本当はそうではない。そう見てしまってはその時生きていた人の目の前にあったものを見ることはできない。

もしその子を握る手が右手ではなく左手だったら、もし下駄をすぐに脱いで全力疾走すれば、もし爆風に乗って板塀の隙間を通り抜けていれば、もし・・・。

晴美が爆死したあの時、どこにもすずと晴美の居場所がなかったように、その時日本という国はそうだったのだ。

この映画は、僕達が戦中戦前にかけてしまいがちなフィルターそのものを顕在化しようとしている。戦中戦前を醜化するのではなく、かといってもちろん美化するのでもなく、ありのままに映し出そうと精一杯作られた映画。それをあなたはありのままに観ましたか、という問いが練り込まれている。

その最大のシーンが、あの母子の被爆なのだ。

映画を観ている僕達にとって、それまでまったく物語に登場しなかった視点と人物が映し出された凄惨なそのシーンは、すずたちのどうしようもなく連続する日常にとって、突如出現した凄惨で非常な出来事に該当する。僕が感じた憤りや戸惑いはすずが直面した憤りや戸惑いだ。日常の中に突如として出現した、それまでとは全く異なる視点と状況への憤りと戸惑いである。その後の孤児の成長は、あとからどう言われようと、どう解釈されようと、ただそれは紛れもなく突如起こった重大な出来事によるものであり、重大な出来事によって「その後」は出現してしまう。

監督は、原爆とこのシーンを両義的な「gift」(英語で「贈り物」、ドイツ語で「毒」)と位置づけたのではないか。僕たちは原爆と敗戦によって生まれたあの孤児なのだ。原爆で親を失った孤児が新たな家族として迎えられ、育っていくのは、この日本という国が、あの瞬間以降そういうふうに育ったということなのだ。戦中戦前という過去の歴史を観ていたはずなのに、あのシーン以後、今の自分へと連なるドキュメンタリーにすり替わった。そのことに僕は動揺したのだ。

もし、「新型爆弾」以前のすずが、僕達の今の暮らしを観たらきっとこう思うだろう。あなたたちの暮らしは、新型爆弾と敗戦によって生じた。あれから70年たったとしても、私達には、新型爆弾と敗戦が暗喩された景色としか見えない。町並みも生活もあなたたちの暮らしのどこをとってもそれを感じずにはいられない。あなたたちが、わたしたちの暮らしを戦中戦前の薄暗がりに感じるように。

シネコンで映画を観たあと、マクドナルドでコーヒーを飲み、アップルパイを食べる僕は、そうかもしれないけれど、そうじゃないんだ、たしかに原爆と敗戦は大きな出来事だった、しかしそれだけではない、僕たちは毎日を生きている、なんとかどうにか生きている、それをそのまま観てくれないか、と「この世界」の片隅からすずさんに答えたい。


追記:
片渕須直監督がこの映画について「理念で戦争を描くのではなく実感できる映像にしたかった」(ウィキペディア)と言っていることと、スタンリー・キューブリックが『フルメタル・ジャケット』を(反戦映画という意識はなく)「戦争そのものを映画にしたい」という意図でつくった(ウィキペディア)ことは、僕が見る限り同じ意識のもとにあると思われます。その意識で戦争を市井の視点から描いたのが『この世界の片隅に』で、軍の視点から描いたのが『フルメタル・ジャケット』です。

March 7, 2017

【392】矛盾の距離。

言葉というのは高濃度に矛盾を含んでいる。許容しているとも言える。

「相手のことを考えなさい」という言葉を発する話者は、その言葉を言う相手のことを考えているようには見えない。どちらかというと自分自身の苛つきや怒りに重心があって、それを相手にぶつけることが主眼になっているように見える。この自家撞着は中距離のループを描いている。つまり投げつける相手を想定し、経由している。

「自由でなければいけない」という言葉は、自由についての言葉であるよりは禁止についての言葉である。この自家撞着はとてもコンパクトで、ほぼ最短のループを描く。この言葉だけで完結でき、それを聞くものを経由する必要がない。

ある考えをずっと伸ばしていったとき、気がつくと元いた場所の裏側であるという長い距離の自家撞着はその経路で少しずつ弧を描き戻ってくる。

言葉は、矛盾というものについて濃淡や距離といった豊かさを含んでいる。言葉は論理を基盤としない。論理が言葉の豊かさの中に育った希少種に過ぎない。

ということを論理的な文体で書くことの無意味さよ。

March 3, 2017

【391】ダンスのようなもの

ダンスはいいよね。

音楽に合わせてついつい体が動くよね。


踊ってると楽しい気分になるよね。


ダンスって情熱的だよね。


ダンスやりたいな。

February 23, 2017

【催し】今週土曜日「絵を描く会」です。


今週の土曜日、まるネコ堂で山根澪の「絵を描く会」です。

前回参加して思ったのは、あぁ僕は物心ついたときからずっとこんなふうにしか描けない。小学校や中学校で絵の描き方を何か習ったような気がしたけれど、ちっとも上達なんかしていなかった。ということでした。

正直、自分が絵を人に見せるなんてことはこれまで脳裏の片隅にもなかったし、そもそも絵を描くということは僕にとって遠い遠い霞んだ景色なのですが、それでもまぁいいやと描いたものを見せることができたのは「こうしか描けないという」自分にとっての確かさがあるだけで、別の見方をすれば単なる開き直りというか諦めというかそういうものでした。


こう書くと、なんでそんなのに参加したの?と思うのですが、それでも僕は面白かった。上手な絵とか面白い絵とか、そういうことが消えて、ただ自分なりに見えたものを自分なりに記す。そういう強い必然の感覚のなかで時間が過ぎていくことが、あとから見れば絵を描くということの一端に掛かっているということがわかったのが面白かった。これまで何もなかった僕にとっての絵を描くという場所にちょっとだけ踏み入れた感じがしました。

まだお席あるようです。

【390】「読む・書く・残す探求ゼミ」のサイトができました。


「読む・書く・残す探求ゼミ」のサイトです。
小林健司さんがサイト制作をしてくれました。

「書く講座とは」のページで

バカ丁寧に読むだけで
世界は驚くほど豊かになる

と、小林健司さんが書いているのですが、これは本当にそうで、たったそれだけのことをやってきたのでした。

この講座、ひたすら読んでいるのですが、不思議な事にこの講座に来てくださった人が「書く」ようになったりします。

それぞれの人が、自分にとっての「読むということはどういうことか」「書くということはどういうことか」それを行為というよりも営みとしてもう一度捉えなおしていくようなことをしてきた結果、読むことや書くことができるようになった。ということかもしれません。

サイトの下の方に小さく「「読む・書く・残す」探求ゼミ 普及委員会」とありますが、僕たちはこの講座(ゼミ)を多くの人がやってくれたらいいのにと思っています。そうすることで「世界は驚くほど豊かになる」と本当に思っています。

どうやってやるのかも「ウェブ体験版」のページに載せています。イベントの企画をしたことがある人にとっては当たり前のことが書いてあるように思えるところもあるかもしれません。でも僕たちは、例えば「主催者ってなんだろう」というようなことまで、一つひとつ確かめながらやってきました。あとから見ると当たり前に見えることも一つひとつです。それをただただ僕たちなりに手探りでやってきました。

大体において「バカ」がつくようなことをやる。
考えてみれば僕たちの取り柄と呼べるのはそういうことぐらいなんだなと思います。

多くの人に見ていただきたいと思っています。
多くの人に講座に来ていただきたいと思っています。
そして多くの人が自分で自分としてやってみてくだされば幸いです。

February 19, 2017

【389】『言語3』できました!


『言語3』納品されました。
大谷が連載していた『書かれたものはその時点での書いたものの死体である。』は今回で最終回です。
小林健司さんの『人と言葉の関係論』はいよいよ佳境を迎えた感じで、これまでコツコツと築いてきた基礎の上にいよいよ独自の世界がたちあがります。人の認識とはどうなっているのか。そこに言語はどう関わっているのか。この号だけでも面白いと思います。おすすめです。

ご注文はウェブからどうぞ。
https://gengoweb.jimdo.com/

【388】アンチな広告。タイムラインを流れる安倍さんと蓮舫さん。

フェイスブックでタイムラインをなんとはなく見ていると、安倍さんの写真がいくつも目につく時がある。

スクロールさせてざっと眺めているだけだと写真ばかりが目に入ってきて、 なんとなく「安倍さん、なんかやってるな。活動してるな」という印象を持つ。

でも実は、そういう安倍さんに関する投稿のほとんどは「左」よりの人から流れている。

同様に、最近はちょっと下火なんだけど、蓮舫さんの写真が目につく時期があった。 「あ、蓮舫さん、なんか頑張ってるな」と思ったりしたのだけど、 そのほとんどは「右」よりの人の発信だったりする。

こういうことは他にもあって、三浦つとむさんの『日本語とはどういう言語か』という本は、文字通り日本語はどういう言語かについて書こうとしている本なのだけど、読んでるうちになぜか英語に詳しくなったりする。

ずっと苦手というか、よくわからなかった英語の時制について、この年になってようやく腑に落ちたのだけど、それはこの本のおかげだ。

アンチ巨人ファンが妙に巨人軍に詳しいというのも聞いたことがあるし、こういう現象にはすでに名前がついているのかも。

一見逆効果な気がするのだけど、三浦さんの本はともかく、たしかに安倍さんに興味をもつのは「左」よりの人だし、蓮舫さんに興味をもつのは「右」よりの人で、そういう意味ではターゲットと商品が合っている。安倍さん(あるいは蓮舫さん)に関する情報は、反安倍さん(あるいは反蓮舫さん)な人が購入する商品で、その商品(情報)を売るために当人の写真をたくさん露出させる。

人に何かしらの行動を促すものは、必ずしも「自分と同じ嗜好や思想」という親和性だけではなくて「自分と逆の嗜好や思想」という疎外性も含まれるというだけのことなんだけど、とてもきれいに逆広告しているようにみえるのは面白い。

February 6, 2017

【催し】言葉の表出、夏合宿2017


まだまだ寒いさなかですが、夏合宿のご案内です。
これまでの合宿から一日増やして4日間です。
定員も少しだけ増えています。

合宿の日程中、最初のミーティングと作品を読む時間は一堂に会しますがその間は自由です。仕事に行ったり、人と会ったり、ひたすら寝ていたり、もちろんずっと机に向かったり。

そんなふうにバラバラに過ごしていても、なぜかともにいる感じがするのがこの合宿の不思議なところです。

ともに過ごしている時間を感じられるのはものすごく楽しいのですが、書くということが持っているものすごく怖い感じも同時にあります。
共通であることと独自であることが同時に強く拮抗します。
そんな合宿です。

夏の宇治の蒸し暑さと時折吹く風の心地よさを思い返しながら。

===
夏です。「書く」ことに挑みます。

言葉による表出(表現)に挑みます。「書く」ことです。
小説、詩、随筆、戯曲、映画脚本、評論、論文、歌詞、キャッチコピーなど言葉の表出であれば何でも。
大量の「ナニカ」を費やして、ほんの少しでも表出できたらそれはすごいことだと思います。自分の言葉を自分の表に出すという「契機をつかむ」ことができれば。

1 初日(10 日)の9時からオープニングミーティングをします。
2 3日目(12日)の13時から20時までと最終日(20日)の8時から20時まで、それぞれが表出した作品を発表し、全員で「ただ」読んでみます。
3 それ以外の時間は自由です。書いたり読んだり話したり聞いたり寝たり起きたり、ただ居たり居なかったり。

参加費 24,000円
(まるネコ堂宿泊費と食事代込。アルコール代は別とします。通いもOKです。)

===
2017年8月10日(木)9:00~8月13日(日)20:00
 ※3日目の読む時間と最終日の終了時間は、延長される場合もあります。
自分の筆記用具をお持ち下さい。プリンタ・印刷用紙はあります。
場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
    宿泊は、雑魚寝になります。
    遠方の方は前泊・後泊可能です。申込時にご連絡ください。
注 意:猫がいます。アレルギーの方はご注意下さい
定 員:4名
主 催:大谷隆、鈴木陵、山根澪、小林健司
お申込:mio.yamane@gmail.com (山根) まで
    お名前
    電話番号
    その他何かあれば

関連情報
・言葉の表出、夏合宿 2016
https://www.facebook.com/events/1103888469683307/
・言葉の表出、冬合宿 2016
http://marunekodoblog.blogspot.jp/2016/08/2016.html
・言葉の表出、春合宿 2017
(満員御礼、キャンセル待ち受付中。)
https://www.facebook.com/events/1821886354747418/

・雑誌『言語』
3号近日発売。予約受付中。
http://gengoweb.jimdo.com/

・読む・書く・残す探求ゼミ第3期
http://marunekodoblog.blogspot.jp/2016/12/3.html

・7回シリーズ「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」

January 29, 2017

【387】「読む・書く・残す探求ゼミ」でドラッカーの『非営利組織の経営』第1章を読みました。

1月28日の「読む・書く・残す探求ゼミ」は、けんちゃんがしばしば見せる鋭いひらめきによって急遽ドラッカーの『非営利組織の経営』第1章を読みました。

この本は昔読んだ記憶があるのですが、その時以上に刺激的でした。こんな本だったのか。

ドラッカーがどのような意識で、どのような人に向けて、どのような世界を志向し、この本を書いたのか。

成功が絶対的善であること。
成功とそれ以外は明瞭に二分法で峻別されるということ。

そのような世界認識によって「非営利組織」では(であっても)、「機会」すら選択的な対象としてリーダーが決める。

20世紀的なアジテーションを思わせる壇上の演説めいた文体は、翻訳家の意識によって選択されたものかもしれないけれど、だとしたら翻訳家にはドラッカーの意識が忠実に浸潤していたのだと思う。リーダーたちのリーダーたるドラッカーの「カリスマ的」リーダーシップに貫かれた文は、圧倒的な力強さによってあらゆるものを押し流し、読者はその快感に浸ることができてしまう。

このドラッカーの意識によってアメリカの医療や教育機関、そして「非営利組織」たちは現在果たしてどんな情況になっているのだろう。たしかに「成功」はしたかもしれない。けれども、それはその組織のはじまりからどれほど隔たったのだろう。

いいタイミングで読んだなと思いました。

【386】「読み明かす会」のはじまりに寄せて


トップページにいきなりけんちゃん(小林健司さん)と僕の名前が出てきたのもあってドキドキしている。あぁこんなふうに思ってもらっていたのかとうれしい。海底深くもぐっていくイメージは本当にそうで、そうそう、そうなんだよという気分になる。そう書いてくれていることにうれしい。

そのあとを読んでいくとそのうれしさを追いかけるように焦りが出てくる。すでに、こんなにも鮮やかに文字にできていることに嫉妬が交じる。そして改めて「読み明かす」なんていうとても素敵な言葉まで掲げていることに、もうくやしい。

一冊目の本を選ぶ動機に「この本以外にすることは可能だったけど、そうゆうわけにはいかなかった」とある。「そうゆうわけにはいかなかった」確からしさというのはどこにも紐付けられていない。こうだから確かという「こうだから」がない。それを支えているのは確からしさがただあるということ。未だ無いことを決めるというのはそういうことだ。可能性という無限の無から、何かがただ出来(しゅったい)する。

この根拠がない、なんの頼りもない確からしさによって決めることが、それまで存在しなかった世界へ自分を押し出していくことを僕たちは知っている。世界が「あける」。

アロー(中川馨さん)とはまこー(濵田恒太朗さん)に僕たちが何かしらの影響を与えたのだとしたら、それは僕たちが僕たちの確からしさを確かだと思っていることだ。

何かがはじまるとき、それまでのすべてによって支えられてほんの少しだけ「あける」。ほんの少しだけれど紛れもなくそれは一つの世界である。こうして二人の何かがはじまるのだなと思う。

中川馨、濵田恒太朗「読み明かす会」

January 19, 2017

【385】freetelの「節約モード」でGoogleドキュメント。

freetelの節約モード。
MacBook Airをテザリングで使った場合。
使用スマートフォンはPuriori3 LTE。
(2017年1月19日時点)

できること

・Googleドキュメント
・Googleスプレッドシート
・Bloggerの投稿(画像を扱わない場合)

いずれもMac版Google Driveはインストールせず、ブラウザ(Chrome)上での動作。
最初の読み込みに時間がかかるけど作業自体は問題なさそう。

できるかもしれないけどやりたいと思わないこと

・フェイスブック

画像の読み込みがかなり遅れる。

できそうにないこと

・YouTube動画閲覧


January 14, 2017

【384】「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」第4回の感想。

7回シリーズで行っている「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」。

第2回の第一章天皇、第二章戦争の放棄の感想は、こちら
第3回の第三章国民の権利及び義務の感想は、こちら

第4回(2017年1月12日)は、第四章国会。

無味無臭の手続き感に裏返された思想性


第三章までは思想性とも言うべき、「良いこと」への方向感が濃厚にあった。例えば、

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
など。日本という国にとどまらず、世界、それも今はまだない理想の世界への夢想を思わせるような思想性は、第四章では、ところどころ落ち切らない汚れのようにこびりついて残っているだけに思えてくる。例えば、

第四十四条 (略)但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。
と但書のレベルにまで劣化する。その分、前に出てきているのが「手続き」そのものである。

手続きの持つ無味無臭感の最たるものは、「バカ丁寧に読む会」参加者の多くが指摘したように「数字が目立つ」ことだ。数字の持つ客観性の強さがそれまでの「言葉」主体の主観性の強さに比べて、大きく異なった印象を与える。

さらに、具体的に数字が記されている箇所を見ていくと、この章で記載されている数字は、大きく二種類にわけられることがわかる。

一つは、期間、期限を表すもの。

第四十五条 衆議院議員の任期は、四年とする。
第四十六条 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第五十四条 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行い、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
第五十四条 (第三項)次の国会開会の後十日以内に、
第五十九条 (第四項)六十日以内に、
第六十条 (第二項)三十日以内に、

もう一つは、割合。

第五十三条 いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、
第五十五条 出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
第五十六条 その総議員の三分の一以上の出席
同(第二項) 出席議員の過半数
など
ここで一つ疑問が出る。こうやって具体的な数字が上がっている条文がある一方で、いくつかの条文では「法律でこれを定める」と憲法そのものには具体的数字を挙げていない。

第四十三条 両議院の議員の定数は法律でこれを定める。
つまり議員定数を変えることは法律の変更で可能だが、第五十四条の「十日」を「十一日」にするには憲法改正が必要になる。

何を憲法に直接書き込み、何を法律で扱うことにするか、という問題は、憲法というものの存在に対して「致命的な」ことであるはずだ。国会が「唯一の立法機関」と憲法に書かれているように、国会という機関は超法的な存在の側面がある。「法律の定めるところ」というのは、極論すれば「国会の自由になる」ということで、そのために「国会の自由にならない」部分として、憲法に直接書き込まれた文言、特に数字が意味を持つ。

そういう意味で見た場合、本章に出てくる二種類の数字「期間・期限」と「割合」の持つ意味に何が込められているかが感じられてくる。

「割合」の方は、論理性というかある種の普遍性を表している。過半数、三分の一、五分の一、三分の二といったそれぞれの割合は、人類にとってある普遍的な割合として機能するのだというロジカルな意思を感じる。賛成反対のどちらの立場にたったとしても、「過半数という割合は人間として納得性がある数字だ」と言った具合に。

一方で「期間・期限」を示した数字は、そういった人類にとっての普遍性を標榜しているのだろうか。たしかに、人間の寿命は歴史的にそう大きくは変化しない。そこからの逆算として、国会議員という立場に立ちうる期間の一区切りが「四年」だったり「六年」だったりというのは、人間の寿命に対する割合として合理性がある、ということだろうか。もしそうだとすれば、任期が四年あるいは六年であったり、通常国会の開催が年一回であったり、予算が年一回策定されたりすることを根拠にして、相対的に「六十日」や「三十日」や「十日」という日数がロジカルに算出されているのだろうか。

おそらくそうではない。

この絶対値としての日数や年数の意味は、議決に必要な議員など「割合」の数字と根本的に異なっている。その鍵は、この章全体に漂う無味無臭な硬質な手続き性とも関連がある。

現実の国会議員がどのようかはともかくとして、この条文を読む限り、議員というものになることのメリット、魅力は全く感じられない。むしろ高いリスクを感じる。国会という場は「唯一の立法機関」であり、超法的な存在だからだ。

国会という場に立ったときに想定しうる最も危険な状況は、自分自身とそれに同調する人たちが法律から疎外されることだ。国会で多数派になった場合、少数派を根こそぎ「逮捕」できる法律すら作りうる。この時、少数派を守ってくれるものは何もない。

にも関わらず議員になろうとする人にとっては、「四年」や「六年」という期間が、「法律ではなく」「憲法の上で」確保されているというのは極めて重要なことだ。また、国会という場が開かれる日数が、「三十日」「六十日」と確保されているのも同様、これがなければ恐ろしてく議員になりようがない、という意思を感じる。それは憲法の意思と言ってもいいものだろう。

それが対立する緊張として現れるのが、議員の不逮捕特権で、

第五十条 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
憲法が認める「特権」であることと、「法律の定める場合を除いては」という法の下への従属とがギリギリでバランスしている。

この緊張は、憲法と法との対立の緊張であり、理想と現実との対立の緊張である。「良いこと」へ向かおうという思想と、情況がギリギリまで押し込まれた妥協との対立の緊張である。

つまり、前文、第二章、第三章によって「近代民主主義によって目指された世界」があり、それが逆向きに縮退した民主主義の限界的状況として第四章国会はあるといえる。

January 13, 2017

【催し】「ぼくたちの一年会議」のご案内

日程を毎週水曜日に変更しました。(2017年4月18日追記)

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小林健司と大谷隆が続けてきた「会議」はちょっと変わっています。

一年ほど前、二人で「ナニカ」をしようという漠然としたスタート地点から、ほとんど毎週、ただカフェでお茶を飲んだり、河原でお酒を飲んだり、ときには全く何も話さない「会議」をしてきました。他の人からはただダラダラしている二人組にしか見えず、とても会議をしているとは思われなかったでしょう。自分たち自身でさえも何もしていない気がして幾度も不安にかられました。

しかし、振り返ってみると驚くほど豊かな事実がぼくたちの足跡のまわりに転がっています。雑誌「言語」発行、東京での「読む・書く・残す探求ゼミ」、「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」など、たくさんの自分の人生に欠かせない出来事が起こりました。

今もその歩みの途上にいるわけですが、こうして二人で会って話し合うとなぜかナニカが形になっていく、という現象を繰り返し目の当たりにする中で「これはどうやら間違いないぞ」と思えるようになったことがあります。

それは、本当にじぶんに一番近いことを決めたり話し合ったりするときには、目的とか議題とか話の整理などといった、いわゆる「良い会議」の手法は邪魔になる、ということです。

理由は簡単で、自分から離れているものなら、いくらでも整理したり分解したり、合理的な判断の元で意思決定したりすることはできますが、自分に近いこと、とりわけ自分自身でもはっきりと分からないくらい自分の中心をなしていることについて、安易に整理や分解をしてしまうと、ほんのちょっとの事実を全てだと勘違いしたり、表面だけしか見ていないような結論に達したり、自分自身とかけ離れたことを話し合うことになるからです。

何かを決めるということは、目の前の世界をよくよく見た結果「そうせずにはいられない」状態になることです。あとになって「すべてこのためだったのか」と思うようなことです。自分自身そのものにとって、予め目的や議題はありません。

本当に自分自身にとってこうとしか見えないようなこと、そうとしか感じられないこと、どうやってもこうやってしか考えられないこと、そういうものの中に豊かさが詰まっている。しかもそれは自分だけじゃなくまわりにいる人まで豊かにする。なぜなら、自分にとってあたり前の世界が、他人にとってあたり前の世界と触れた時に初めてあたり前じゃないことが分かって、触れ合った分だけ世界が広がるから。

ぼくたちは、こんな「会議」を延々続けて、多くのことを実現してきました。その土台を元に、もう少し一緒に参加する人が集まったら面白いんじゃないかと思い、一年という期間の会議をここに宣言いたします。

場所:まるネコ堂 もしくは 参加メンバーが合意したどこか。
   (第一回目はまるネコ堂で開催)

期間:2017年4月1日のキックオフ会議が第一回(終了)
   2018年3月末までの予定。
   毎週水曜日13時ごろから17時ごろまで。

定員:各回3名程度。
   キックオフ会議、クロージング会議のみ8名程度。

参加費:一回3000円のチケット制(どの回でも参加可能)
    11枚綴り30,000円

主催:大谷隆、小林健司


申し込み:大谷(marunekodo@gmail.com)までメールで。

January 6, 2017

【383】久しぶりにラーメンズ「銀河鉄道の夜のような夜」。

ラーメンズと言えば傑作「銀河鉄道の夜のような夜」。

傑作すぎて途中で見ていられなくなる。何かがギリギリまで張り詰めていく。この張り詰める感じは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と同質のもので、予感と予兆、つまりあらかじめ起こってしまっていることへ向かってしまわざるを得ない感じと兆しの密度だ。


コント中盤でお母さんの声が舞台全体に響いて、しかもなんとも怪しく、本当にそれがお母さんなのか、本当にそこにいるのかわからない感じで演出されているのだけれど、これは僕が宮沢賢治の原作を読んだときに像を結んでいたお母さんの声やその「見えない姿」と極めて似ている。
この物語はそもそも誰の物語なのか、誰が生きているのか、そういうことがあやふやなものとして、しかしあらかじめ起こってしまっている。

January 5, 2017

【382】無題

言葉の表出、冬合宿2016」で僕が書いた文章です。
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大谷 隆

もうこれでおしまい。たったいま書き終わった。書き終わる直前は息が止まっていて、とてもくるしいからもうこれ以上無理だと思う。けれどまだ書き終わっていないから終わらないと思っている。息の根が止まらないとと思う。息ができなくてくるしいのに息の根が止まることを望んでいる。のは困る。といっても息を止めていることなんて思ってもみないのだから困っていることも思ってもみない。だってまだ息が続くと思っている。まだまだ続くと思っている。まだまだ何もできていない。まだまだだからこれからと思って途方にくれている。なにしろ先なんて見えていないし、存在すらしていないのだから、どこへ行こうにも一寸先すら無い。ただこれまで歩いてきたあとが後ろにはある。でもそんなものはなにもなっていやしないのじゃないか。間違ったところへ来てしまった。でも間違うも何も何もなかったんじゃないか。最初は。そもそもはただ空っぽだった。白紙の紙の束になにも無い。まだ一文字すら書いていない。なにからはじめようか。なんでもはじめられる。なにもはじまっていないことの前にはすべてがある。こんなにいっぱい。山ほど。抱えきれない。ダラダラとあふれこぼれ落ちているたっぷりから。

January 2, 2017

【催し】『無為の共同体』ゼミ


おかげさまで満席となりました。
以後キャンセル待ちにて受付いたします。
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研究のためでもなく仕事のためでもなく「ただ読むこと」を通して本を体験します。

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』
アマゾン http://amzn.to/2hJpGCT

第1回 2月11日(土)
 第一部 無為の共同体 46ページ 7行目まで

第2回 3月11日(土)
 第一部 無為の共同体 46ページ 8行目から第一部最後

第3回 4月8日(土)
 第二部 途絶した神話

第4回 5月20日(土)
 第三部 「文学的共産主義」

第5回 6月3日(土)
 第四部 〈共同での存在〉について

第6回 7月1日(土)
 第五部 有限な歴史

各回 13時から17時ごろ

参加費:6回通し 15,000円 各回単発3,000円
    もしくはそれに準ずるもの。
場所  まるネコ堂(京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167)
http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
定員  5人程度

申込:大谷 隆 (Ohtani Takashi)までフェイスブックのメッセージかmarunekodo@gmail.comまでメール下さい。

・本を読んできてください。
・各回ごとにレジュメ(形式自由、A4最大2ページ程度)を提出できます。

注意:猫がいます。ゼミ中は会場には入れませんが、普段は出入りしています。アレルギーの方はご相談ください。

参考:
まるネコ堂ゼミ
http://marunekodosemi.blogspot.jp/

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「『無為の共同体』ゼミ」に出ようと思っています。(山根澪のブログ)