明日から「言葉の表出、春合宿2020」。今回は僕は主催ではない。主催ではないときにこういうことを書くのもどうかとは思うけれど、あまり機会がなさそうなので、書く。
主催が何をやっているのか、というのはなかなか見えにくいところなのだけど、僕なりに主催とは何かは以前考えた。
主催の仕事は二つある。
一つは、主催は出来事を引き起こす。
もう一つは、主催は出来事を引き受ける。
現実的な意味での仕事、例えば、取りまとめとか、運営とか、宣伝とかは、主催の仕事ではない。実際には兼務することが多いだろうけれど、要するに別の人でも構わない。別の仕事だ。
そういった別の仕事を取り除き、どうしても主催者がやらなくてはならないこととして残るのが上の二つだ。
別の言い方をすると、
主催は、その出来事が起こる場所である。
どんな言い方をしてもそうなのだけど、物理的に作業が発生しないので、実際にそれをどうやるのかというのは見えるものではない。ただし、その出来事に対して不可欠であり、場所としてその出来事から離れることができないから、何もしないが重労働だ。
何もしないというところをもう少し進めると、生身の人間である必要はない。例えば、宗教的な催しには、神が主催していると言っても良いようなものがあるだろうし、死者が主催している行事もあると僕は思う。
父親が死んでその葬儀をしたとき、僕は喪主という立場だった。喪主とは何か、あるいは葬儀とは何かということを通夜の一晩寝ずに考えた。葬儀場のホールで、その夜は僕と弟が父親の遺体とともにそこにいた。
明け方、要するにこの葬儀は父親のものであり、父親によって引き起こされ、どのような結果になろうとも父親はそれを引き受けるだろうと僕は結論した。喪主である僕は、その実務的運営者か、ぎりぎりまで踏み込んだとしても共催者だ。
葬儀は「残された者の悲しみを癒やすためにやるのだ。つまり葬儀は残された生者のものだ」といった心理的で実用的な解釈は、効果としてはそういう面があることは認めるけれど、僕は全くそんな風に思えなかった。
葬儀は死者が主催している。
こうして僕は「何かをやる」ということのイメージが持てるようになった。これだけでも父には感謝している。
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