人というものには、生物学的なヒトとして共通な存在であると同時に、〈自己〉と〈他者〉という絶対的に異なる存在でもある。この二つの存在性は二分的ではなくて二重的にある。汽水域のように、共通な存在としての濃度が高いところと異的な存在としての濃度が高いところがグラデーションをもってある。
スポーツなどにおいて、あるレベルまでは他者からの指導が有効なのは、骨格や筋肉のつき方といった生物学的なヒトとしての共通性の濃度が高いところで行うことだからだ。もちろん、スポーツであっても突き詰めれば、他人とは違う骨格、筋肉なわけだから、それぐらいの領域になれば他者からの一律的な指導では到達できなくなる。ただそのレベルは高いところにあって、低いところではそういった差異は出にくい。
一方で書くことは、個的な〈意識〉に密着していて、そこでは〈自己〉と〈他者〉の絶対的な違いとその絶対的な違いを前提とした〈越境〉に重心がある。高濃度に異的な存在として書く人が存在し、その眼前の異の淵をどう越えるかが問題となる。書かれた表現は〈越境〉として出現する。
ここでは指導が意味をなさない。誰かが、こうやれば書けたと言うとき、それはその誰かにとってそうやれば書けたということしか意味しない。それを誰かが書いたということでしかない。あなたや僕がそうやれば書けるということではない。あなたや僕が書くためにはあなたや僕にとって書くということをそれぞれが掴む他はない。
ただ、この〈越境〉自体は特別なことではなくて、僕達が日常的におこなっていることでもある。それが逆側からの〈越境〉なだけで、つまり読むことだ。問題はそれが、往くことと還ることが非対称な道であることだ。
読むことが書くことに対して影響しているという事実は、この逆側からの〈越境〉が書くことに対して影響しているということを意味する。書くための〈方法〉の全ては、それを読むことによって多くの人がそうなったという、人の共通性から取り出されている。その上で、読むことの共通性を書くことの共通性へ逆過程として単純に転写している。言語道具説が取る位相はここにある。言語道具説は、人の存在の共通性を前提し、書くことと読むことを対称な逆過程として位置付けている。
この単純な逆過程の転写は〈自己〉と〈他者〉に絶対的な異なりを前提し、その〈越境〉として書くことをしようとしたときには役に立たない。逆側からの道順を教えてもらっても、その道では往けない。ある表現をどんなに読んでも、どれだけ読めたと思っても、その表現を書くこととは、異なる。
人は書くときに、それを読んでいる。だから、書くことに読むことは含まれている。文字として書かれた瞬間に読むことが発生していて、さらに文字として書かれる前にも読むことは発生している。書くことと読むことはその人のなかで強固に張り付いている。書くことは読むことに押し戻されるとともに引き摺り出されもする。瞬間的に移り変わる書く〈自己〉と読む〈自己〉によって表現が練り出されていく。〈自己〉の瞬間的な移り変わりは、生きていることからしかできない。書かれた表現は死に属するが、書くことは生に属する。書く人は、書き終えることで〈死体〉となって〈他者〉の生に〈越境〉する。