「フラジャイル」が面白いとけんちゃんに教わって見てみたが、面白かった。
主人公のセリフである「僕の言葉は絶対だ」は、原作の漫画ではそれほど大きくは扱われていないらしいから、これを毎回の決め台詞として掬い出したのは脚本家なのだろう。優れて現代的な感覚だと思う。
神と王がその座を降ろされて以来、僕達の世界は急速に相対化の時代を迎えた。視界が世界中にまで届き、人間の内部にも深く潜行した。その爆発的な人間〈世界〉の果てしない拡大の結果、〈現代〉において〈常に正しい〉言葉は「いつもそうとは限らない」である。
しかし、僕達は心の底で「絶対」を求めている。今ほど「絶対」を欲している時代はない。
「精度」というものはもともと「真値」からのバラつきの小ささをいうものだから、本来100%の精度というものはありえない。99%の精度を更に上げれば99.9%になり、更に上げれば99.99%になるだけだ。そしてそのためには膨大なエネルギーが必要になっていく。登れば登るほど斜面が傾斜が険しくなる崖のようなもので、永久に山頂には辿りつけない。
それを「うちは十割出しますよ」と「公言する」ところにこのドラマの「ドラマ性」がある。病理医・岸の言う「君たちが医者であるかぎり、僕の言葉は絶対だ」にしびれるのだ。
舞台が病院であり、主人公が医者であることは必然性がある。なぜなら、僕たちにとって「生と死」が最後に残る「絶対」だからだ。僕たちは「絶対」に死ぬ。にもかかわらず、今を確実に生きている。「生と死」という紙の裏表のような「絶対」に日常的に直面し続けている現場として病院があり、医者がいる。
病理医がどんな診断を出そうとも、治療方針を決めるのは臨床医である。その壁を主人公の病理医は顕微鏡にうつる細胞と検査データという動かしがたい「絶対」の事実を手に立ち向かう。
ドラマの序盤は、この立場の壁への挑戦として描かれる。この壁の両側にいるのはあくまで人間であり、人間同士の激しい対立としてまさにドラマチックに展開する。
中盤は、登場する人物たちの過去や成長の物語を織り交ぜながら、展開し、やがて終盤を迎える。
終盤、ドラマが向かう先は、医療医薬を含んだより大きなシステムだ。そのシステムは人間が作り出したものではあるが、個人の領域を超えた大きなシステムとして、自律性を持っている。このシステムとしての自律性がどうしても持ってしまう「癌」に主人公は挑む。
しかし、この終盤、終焉に向かっていく圧力があるにもかかわらず、また立ち向かう〈敵〉が強大になっていくにもかかわらず、ドラマの緊迫度は下がる。これにはわけがある。
最終的な敵役として登場する医薬会社の部長・間瀬は、主人公・岸に治験報告書の改ざんを迫る。この行為は明らかに犯罪行為であり、〈敵〉としては申し分ないのだが、序盤にあった人間同士の立場の違いによる鋭い対立には、ならない。
間瀬も「生と死」という人間の絶対的宿命を基盤として人間が生み出した医療の世界に「生きて」いる。自分の手掛ける薬が「生と死」に立ち向かうものであり、優れた医薬が人間の「生と死」に肉薄することを鋭く〈自覚〉している。彼もまた岸と同じように「生と死」の絶対性に〈魅せられて〉いる。
最終回、医薬会社の不正を暴露する講演を終えた岸に、最初に拍手を捧げるのはこの間瀬である。自分がまさに「生きている」そのことが、岸と同じ此岸にいることを認めるからだ。このシーンのためには、間瀬を〈非〉人間的には描けない。
どんなに悪であろうとも「生と死」の絶対性が鋭く突き刺さった人間として演出せざるを得ない。間瀬は岸と直接対峙した時、嘘を言わない。情報を隠すこともない。情に訴えることもない。序盤にあった、人間同士の立場の違いからくる真正面の対立として描けない。二人の対立そのものが「生と死」の絶対生の前に相対化されてしまうからだ。人間の対立という軸によってドラマ性が構築されているにもかかわらず、二人の立場は「すれ違い」に収斂してしまい緊張感のあるドラマ性を維持できない。それでも、僕はこのドラマは面白いと思う。
なぜならこのドラマは、絶対性に〈魅せられた〉ものたちによって、絶対性を鮮明に現出させるようとするものであり、僕にとって内臓に喰い込むような迫力があるからだ。岸と間瀬、そしてその他の登場人物たちがそれぞれに〈魅せられた〉「生と死」の絶対性を現出させようとしているからだ。
読むことと書くことは〈僕にとって〉の絶対性に通じているのだと思う。僕にとっての「生と死」に通じているのだと思う。書くという行為がひとたびなされれば、それはこの世に「書かれたもの」を現出させる。書かれた以上はもう書かれる以前へは戻ることはない。読むという行為は、書いたものによって書かれたものが現出してしまったという「絶対」的事実への挑戦にほかならない。そういうことを僕はこのドラマを見て思い返した。
僕だって言いたくて言いたくて仕方がない。
君が人でいる限り、僕の言語は絶対だ。