一応、京都の公演は全て終わっているのですが、他でもあるかもしれないし、そのときに何も知らないままで観てみたいという方は読まないほうが良いと思います。
まず、帆香(ほのか)役の青柳いづみさんの異様な色気というかわかりやすい感じというか、驚いた。わかりやすい感じというのは仕草とか視線とかそういうことで、僕が観てきたチェルフィッチュにしては珍しい。
衣装の感じが、他の二人(一樹とありさ)とは違っているのもそうだし「そうでしょ?」「ねぇ?覚えてる?」と一人で一方的に同意を求めながら、一樹からの返事もないのにしゃべりまくるのもそうで、あぁこれは何か異様だと思っていたら案の定、幽霊だった。
幽霊といえば、2013年の秋だから2年半前に観た「地面と床」を思い出す。あの時も幽霊が登場した。しかし、あの時の幽霊とは幽霊が違うというか、幽霊というものの解釈が違う。
帆香は、あの地震の4日後に地震とは関係なく喘息で死んでしまった幽霊なのだけれど、「地面と床」の母親役の幽霊が、死んだあとも意識を更新して「どうしてあの子は墓参りにも来てくれない」というようなことを言うのと比べて、帆香はあの地震の4日後で完全に止まっている。だから、帆香は、強烈に強烈なあの地震直後の僕たちの意識を保存している。まるで瞬間冷凍したみたいに。
異様な感じはだから、あの頃の僕たちの意識の異様さで、帆香が喋り出してすぐに直感的に、これは何か危険なことをニュートラルに口にするに違いないという感じがした。案の定、脚本がないので正確ではないけれど、「私、あの地震があって本当によかった」「あの地震のおかげでこの世界はとても幸せになっていく」そんなことを口走る。
でもたしかに僕たちは、あの時、そんな気分がしていた。誰もが人にやさしく、機会さえあれば他人を助けよう、他人と助けあおう、そう思って、そんな機会を目を皿のようにして探したりもした。そんな世の中が訪れるなんてそれまでそんなに実感を持ったことがなかったけれど、あの時は現実だった。だから、これからきっと世界は素敵になるとすら思っていた。もちろん、あの地震があってよかった、なんてことはとても口にできる言葉ではなかったし、今でもそうであることは変わらない。それを口走る帆香。
5年経った。今、演劇のセリフとしてそういったことを現実に表現するのは、ギリギリだと思う。こうやって感想を書くのすらドキドキする。
5年経った。僕達の世界は、元に戻ってしまった、かのように見える。チャンスさえあれば他人を助けようという人たちは確かにいるし、僕もたぶんそう思っているけれど、その感じがあの時のように、僕達の体や思考から溢れでて、世界に充満しているわけではない。霧が晴れてしまったかのように。
僕たちは帆香のようにあの時、人と交わることをとても望んでいた。人としての輪郭が溶けて世界と交わろうとしていた。それはとても色っぽいことだった。