March 19, 2016

【313】僕はわりと付き合いやすい人間だと思う。共同幻想論的視点から。

えー?どこがー、という声が聞こえてくる気がするけれど、よくよく考えるとそうなんじゃなかろうかと。




吉本隆明の『共同幻想論』をゼミで読んで、あぁ僕はこの共同幻想から個人幻想へと滲入し混和してくる力学がとても苦手なんだとわかってきた。

吉本の言う共同幻想には特徴があって、川上春雄さんの解題に岸田秀との対談として端的に記録されている。
吉本 ぼくはそういうふうには使っていないわけです、ほんと言っちゃうと。個々の、つまり岸田さんの言う私的な幻想が集合したり、つまり加算的にプラスしたら、あるいは掛算したらば、それは集団的な幻想で、共同幻想だという意味合いは、ぼくの共同幻想という概念からは排除されている。
岸田 ないわけですか。
吉本 なくはない、実体としてはと言いますか、具体的にはあるんですけども、共同幻想、対幻想、自己幻想というふうに、いわば本質的に抽出しちゃった場合には、個々の私的な幻想がたくさん集まって共同幻想になるという面の共同幻想は、全部取っちゃって、残るものを共同幻想と言ってる。
(「改題」爆風のゆくえ)
私的な幻想、つまり個人幻想が集まった場合の岸田的「共同幻想」というのは、個人から共同体の方向へ寄り集まる幻想で、吉本の共同幻想は共同体から個人の方向へ向かってくる幻想ということだ。吉本の共同体は、個人の集まりとしてではなくて、ある一個人が存在する以前に予めその一個人の周りに存在している共同体というようなイメージなのだと思う。

この世界はある一個人が誕生する以前からあって、そこには大小様々な組織や集団があって、そこでは物語を共有している。この物語をその誕生したばかりの一個人も共有せざるを得ないという圧力が、吉本の言う共同幻想の発端である。だからどんな個人もこの共同幻想から根本的に逃れることはできない。

もちろん、共同幻想はオンかオフかといった二分的なものではなくてグラデーションを持っているから、なだらかな丘のような共同幻想の場合もあって、その丘では僕ものんびりいられる。それが、急峻な斜面として隆起したとき、途端に息が切れ、脚がもつれる。

各自が決められた予算内で自分が欲しいものを買って持ち寄ってみんなで食べる「持ち寄り食会」というのをよくやるのだけれど、これは個人幻想が集まった場合の岸田的「共同幻想」で、それぞれの個人幻想は鋭く切り立ってはいるけれど、吉本的共同幻想はなだらかにしか生じていない。なだらかな丘の上でそれぞれが好きにやっている。

僕は一人でいるのも好きだし、人と関わるのも好きだ。自分が言っていることはもちろんだけど、他人が言っていることにも敬意を持っているつもりだ。ただ僕は、僕という個人が確実に存在しているにもかかわらず、集団として組織としてそこに混和し、共同体の側に自己を位置づけて他者へと向かう方向性を持ってしまうのが嫌いなのだと思う。あるいは、共同体〈として〉ものを言う人が苦手なのだ。

僕のような人は珍しい存在だとは思わない。〈現代〉には、結構いると思う。たぶん吉本隆明その人もそうだからこの本を書いた。そして実はそういう人は、付き合いやすい人間なんじゃないだろうか。少なくとも僕は付き合いやすい。僕が僕のような人間と付き合いやすいというだけで、僕が付き合いやすい人間だと言い切るのは難しいけれど、でもそう思う。




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