June 20, 2016

【353】ゴミ箱のバージョンアップ。蓋をつける。

うちのゴミ箱はりんご箱。

なんの変哲もないりんご箱をゴミ箱にしています。
ここに燃えるゴミとプラゴミの袋を入れていました。袋は2つだけど、なかでごちゃっとなっていて、そのうえうちの猫が漁るのでなんとかしないととバージョンアップを決意。

バージョンアップ用の材料は、もう一つのりんご箱をバラして入手することに。
左の黒いのがゴミ箱。
右の白いのをバラして材料に。
新しさから言えば、バラしてしまう白い方が新しいのだけど、あえて古い方を活かすことに。なぜなら、


同じ側面の板でも厚みが違う。
この手のものは、だいたい古いほうが良い材料を使っているから。
この箱の場合は、板の厚みが違う。

というわけで、まずは白い箱をバラす。
釘抜きはお尻のところに当て木をしてやると
釘が真っ直ぐ抜けます。
釘で止めてあるので、板を叩いて釘を浮かせて抜いていく。
バラすとこんな感じ。
幅が不均一な板をうまく組み合わせている。
抜いた釘はこんな感じ。
蓋につける取っ手を以前バラしたドアのやつから使いまわそうと思ったのだけど見当たらない。仕方がないので、

両端は平らに削った。
となりの家のザボンの剪定枝から適当に曲がっているのを選ぶ。

両端の固定用の板もバラした材料で作る。
バラした板を繋いで蓋にする。
取っ手が斜めなのは、デザイン上からではなくて、
真横につけると板を割ってしまいそうなので。
箱のなかは、
仕切り板もその固定用のパーツもバラした素材で。
仕切りを入れておく。
これで、燃えるゴミと燃えないごみが分けやすくなる。

蓋をつけた状態で猫のチェックを受けると、開けようともしなくて、これでゴミ漁り対策もバッチリ。


June 17, 2016

【352】人は驚くほど違うのが面白い。

もともと一人ひとりの人が同じではないとは思っていたけれど、
その同じではない度合いが漠然と思っていた以上で、
それが今はとても面白い。

ある何かを同時にその場で体験したとしても、
それについて「どうなのか」というのは全く違っている。

それにもかかわらず、
なぜかピッタリという感じを持つ時もある。

驚くほど違うということを感じれば感じるほど、
驚くほど同じということも感じられる。

自由というのはそういう広大さを指している。

June 16, 2016

【351】電力会社をHTBエナジーに変えてみた。

電力自由化ということで、以前、大阪ガスのシミュレーションをやってみたら、大幅に料金が跳ね上がるという結果が出た。もともとの消費電力が少ないから、まぁそんなものかと思っていたのだけど、よつばに入っていたパンフレットで消費電力量にかかわらず値下がりする会社がいくつかあることがわかった。

乗りかかった船というか、なんというか、ここまでくると関電から変えてみたくなっていたので、変えてみることに。

会社はHTBエナジー。HTBはハウステンボスのこと。長崎のテーマパーク。
そんな会社がなんで電気?と思ったけれど、太陽光発電などもしているらしい。電力自由化って、地域まで自由になるのかとちょっと驚いた。

HTBエナジーの申し込みはウェブで完結。うちはすでにスマートメーターだったのか、なんの工事もなく2週間ぐらいであっけなく切り替わった。

関電がとくにどうというのはないのだけれど、最近クーポンやらなんやらといろいろやっていて、その手のものに全く興味がわかないので、HTBエナジーのあっさりした画面は好感が持てた。そのうちHTBエナジーもこってりしてくるかもしれないけど。

安くなる割合は5%。うちはもともと1000円ちょっとの電気代だから、一ヶ月で50円。年間でなんと600円もの節約!というわけで、家計上の意味はほぼありません。

【350】飽きることと反復の遠さ。

昨日、箕面の友達と久しぶりに銭湯に行った。いつもその友達が行っていた石橋駅近くの銭湯が改装中ということで池田駅の近くの銭湯まで桜井から阪急を乗り継いで行く。

銭湯に行ったあとは桜井のグルメシティで玉ねぎともやしと卵とコロッケを買って、その玉ねぎともやしと卵を炒めたのとコロッケ、それにご飯を炊いて一緒に食べる。あとビール。

二人で話すことはいつもそんなに変わらない。やることもほぼ一緒。毎回同じようなことをして同じような感じを持って、同じような話をする。

帰るときにはまた来るよと言って帰る。新しいことというのは殆ど無いし、あったとしてもそれを期待するようなこともない。ただ繰り返されていく。繰り返したくなる。

僕は飽きっぽい。何かをやるとなるとしばらくがーっとやって、ぱたんと飽きる。

でも、何度も何度も同じことをする、という面もあって、この友達との時間もそうだ。同じことが起こっていても楽しいし面白い。

飽きる、といったときに、何度も同じことが繰り返されることをセットにしがちだけれど、僕の中では飽きることと反復はそんなに近いところにない。

僕が飽きる、と思う瞬間は、もうこの辺でいいかな、という感覚で、そこまでやってくる道のりがどんなに起伏に富んでいようと、どれほど刺激的であろうと、もうこの辺でいいかな、と思ったら飽きる。すでに飽きている。

たとえると、ジェットコースターに乗っていても、乗っている途中で飽きるようなことで、何度も同じジェットコースターに乗ったからというわけではなく、初めて乗ったジェットコースターでも乗ってる途中で飽きるときは飽きる。

僕にとって、反復することと飽きることの間には、さほど関係があるわけではない。刺激の多少も、さほど関係があるわけではない。牽引力や吸引力も、さほど関係ない。

こういう文脈だと、興味というのはいつでも何に対しても作り出せるし、いつでも失うことができると言える。だからといって興味なんてものに意味がないというわけではなくて、興味はあるし、興味があるからやる。

一回飽きたことをしばらくしてまたやり始めたりもする。

またよくわからないことを書いてしまった。

いつもなら少し時間を置いて、
もう少しドライブをかけた方がいいかな、
なんてことを考えて手を入れたりするのだけれど、
今回は内容が内容なので、このまま公開してみる。

June 13, 2016

【349】雨水タンクをつけてから雨がそんなに嫌じゃなくなった。

梅雨ということで、よく雨が降ります。

昔は雨が嫌いで、特に梅雨時は湿度も高くて苦手でした。

でも、雨水タンクをつけてからちょっと雨が楽しくなりました。
つけてからどれぐらいになるだろう。4、5年ぐらいかな。

ヤフーオークションで樹脂製のドラム缶を2つ手に入れて、
トイレの外のところに置いています。
食品工場で使っていたドラム缶の中古らしくて、最初はちょっとだけ臭いがついてましたが、そのうちなくなりました。送料込みで2つで7000円ぐらいだったような。

一つで200リットル入ります。
樹脂製なので鋸で穴があきます。
2つのドラム缶はホースを渡してつないでいます。
渡したホースの中が水で満たされていれば、
2つのタンクで同じ水位を保ってくれます。
写真の奥側がトイレです。
水色のホースを使ってトイレの中に風呂水ポンプで汲み入れています。
手前右から伸びているホースの先が雨樋につながります。

トイレの中はこんな感じ。
用を足して流したあとにポンプのスイッチを入れます。
銀色の蛇口からもともとの水道から流れてくるのですが、かなり流量を絞っています。

タンク内が水でいっぱいになると、もともとの水道の水が止まるので、
それに合わせてポンプのスイッチを切ります。
トイレのなかはこんな感じ。
ホースが動かないようにおもり代わりに口のパーツを
つけていますが、電気のコードでも巻いておけばいいです。

雨樋から流れてくる水の取水は、パイプの途中を切って入れています。

ちょっと見にくいですが、
2リットルか1.5リットルのペットボトルの切ったものを漏斗にしています。

ちょうど雨樋からの管を固定する金属の輪っかがあったので、ペットボトル漏斗をそこに乗せて固定しています。

ホースはホームセンターでちょっと太めのやつ(ペットボトルの口にぴったりはまる内径)のをつけています。細いホースだと雨量が多い時に溢れがち。特に圧力がかかるということもないので、安い透明のビニール製のホースです。

ホースはさすがに汚れてきました。
もとは透明でした。
ここに、二階の屋根の1/4の面積分の雨が流れ込んできます。

まとまった雨が1日も降ればタンクはいっぱい。
以前大雑把に計算したら、雨量7mmで満タンだったはず。

これで水道代が安くなるか、という点は、なんとも言えません。
もともとうちはあんまり水道を使わないようで、
基本料金で使える最低量16立方メートルになかなか届きません。
だから値段はいつも変わりません。

タンクがなければ16立米を超えて従量制の量まで行っているかもしれません。
水洗トイレで使う水の量は1回5〜7リットルぐらい。
ざっと、二人で一日100リットル使うとして、月に3000リットル=3立米。
1立米100円だとしたら、月300円分。
年間3,600円。

この年数使えばたぶん元はとっているでしょうが、経済的には大したインパクトはないので、せいぜい1万円程度の予算が良いと思います。

ちなみに風呂水ポンプの電気代を調べた時は、
平均的な単価では水のほうが電気より10倍ぐらい高価でした。
風呂水ポンプの電気代なんてほんとにしれています。

あと、タンクの中のポンプには、500mlの空のペットボトルを針金で取り付けて水に浮かせています。底まで沈ませているとポンプの振動がタンクに伝わって音が響いてしまうのですが、これでかなり静音になります。上澄みしか吸わないというメリットももちろんあります。

特にメンテナンスらしいことはしていませんが、十分に使えています。

数年前に1度、風呂水ポンプが故障したので買い換えました。
ポンプは800円ぐらいだったかな。

【催し】7月27日(水)「フミノ・バー」やります。

とはいっても、バーなんて数回しか行ったことがありません。それもずーっと昔、知り合いの方に連れて行ってもらっただけで、自分で行くという感じではありません。カウンターで借りてきた猫のようになっていただけです。

それでも、時々バーの話を聞くといいなぁと思ってしまいます。それも、行きつけのバーに行って、なじみのバーテンと話をして、なんていうのに憧れます。

常連としてバーに行きたい。

でもそんな簡単なことではないし、考えてみれば、バーによく行く人というはお酒を飲みにいくのではなくて、自分が常連として居心地がいい場所を見つけるという、まさにそのために自分のバーを探しているといってもいいのではないかとすら思えてきます。行き慣れている人がようやく辿り着くのが、常連としてバーに行くということだとしたら、やっぱり少しずつ実際にバーに足を運ぶことをしなくてはならないはずです。

こういう時、僕の悪い癖で、まっとうな努力の道を歩まずに最初から目的地に居るようなことはできないだろうかと考え始めます。

たどり着いたのが、僕の妄想上のバーを自分で勝手につくって、そこに常連客として行けばいい。

妄想は得意です。妄想だからかなり融通もききます。必要なものは、すでにだいたいそろっています。場所は、まるネコ堂でいいし、酒はリカマンで買ってくればいい。カクテルに必要なものはスーパーで。

あとはバーテンです。

うってつけの男が一人います。
フミノさん。

現実のバーテンがどのような資質を必要とするかは全くわかりません。究極的な客商売でもあるので、きっといろいろとある気がします。

でも、妄想バーなので、そういうのは気にする必要はありません。僕が居心地が良ければいい。

フミノさんはそういう人です。

客観的な言い方をすれば、物静かです。繊細といってもいいのかもしれません。でも、そういうことはともかく、僕が妄想するバーテンは、ただ、こんな人なのです。

不思議な存在感と説得力を持つ人です。
フミノさんが「バーテンのフミノです」と一言口にすれば、そこはもうれっきとしたバーです。

フミノさんもバーにはほとんど行ったことがありません。ただ、どうやればいいのか、と考えるよりも、それならできる、と考えるタイプです。

そんな僕とフミノさんの妄想を持ち寄ってバーをやります。

バーといえばカクテルですが、庭に嫌というほど生えている元気なミントでつくるモヒートはできます。何度か作りましたがほんとに美味しい。(モヒートは会津のさがちゃんがもたらしてくれました。

あとは適当に。

こんなことに人を呼ぶのか、と言われそうなのですが、もし来て下さる人がいたら、それはとてもうれしいと思っています。

気だるく蒸し暑い夏の宇治で、
夕方ぐらいから始めます。

お代は投げ銭。
持ち込み歓迎。

お待ちしております。

大谷 隆

June 10, 2016

【348】着々と大きくなるブドウ。

ブドウっぽくなってきた。
雨が降るとブドウの実が大きくなる。
気がする。

でも、雨がふらない日は毎日ブドウを観察しているけれど、雨の日はじっくりは観察しないから、ブドウの実は毎日淡々と大きくなっているだけで、雨の翌日に観察した時に、前に見た記憶のなかのブドウから見て一段と大きくなっているように見えるだけなのかもしれない。

いや、やっぱり雨が降って水を吸い上げて大きくなっているのかもしれない。

いつも少しずつ変化しているものの変化をあとから見た場合に何かに原因を求めるという行為に、人間の意識は向いているようで向いていないのかもしれない。

正しいとか間違っているとか、より原因性が強いとか弱いとか、そういうことを判断すること自体を人間というそれそのものが変化するものの中で行うことが多重に不定なのかもしれない。

かもしれないのかもしれない。

June 9, 2016

【催し】「東西ゆくくる」で東京へ行きます。6月24日から27日。

これまでけんちゃんと大阪で開いてきた「読む・書く・残す・探究ゼミ」を東京で、
「東西ゆくくる2016~梅雨~」の3つの企画のうちの一つとして開催します。

主催の「東西ゆくくる」メンバーはもちろん、
大阪まで来て探求ゼミに参加して「東京ではやらないの?」と言ってくださった方々のおかげです。顔を思い浮かべながら本当に感謝しております。


さとし(中尾聡志さん)が書いてくれた案内文、気恥ずかしさもあるのですが、
それ以上に「思いっきり遊んでやるぞ」という気分になります。

さとしの「人差し指ピアノ」、けんちゃんの「声を通して本を味わう時間」は僕からリクエストしました。

こうやって自分のブログに転載しながら、
あぁ、こんなことが起きるんだなと、
今あらためてドキドキしています。

大谷

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今月末「東西ゆくくる」4日間緊急開催決定!

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 東西ゆくくる2016~梅雨~
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●2016年6月24日(金)19時~21時45分/駒沢大学駅
「人差し指ピアノのワークショップ」
講師:中尾聡志(Ordinary World)http://livealive0420-blog.tumblr.com/
【イベントページ】https://www.facebook.com/events/1134020339953040/

●2016年6月25日(土)13時~17時、26日(日)10時~18時/千歳船橋駅
「読む・書く・残す・探究ゼミ<2DAYS> in 東京」
講師:大谷隆(まるネコ堂)http://marunekodoblog.blogspot.jp/
※1日目だけの参加は可能ですが、2日目のみの参加はできません
【イベントページ】https://www.facebook.com/events/1096981040366330/

●2016年6月27日(月)19時~21時30分/三軒茶屋駅
「声を通して本を味わう時間」
講師:小林健司(人とことばの研究室)http://hitotookane.blogspot.jp/
【イベントページ】https://www.facebook.com/events/366684546788493/


<お問合せ> ordinaryworld0420@gmail.com まで
<主催> 東西ゆくくる(小林健司、小林直子、中尾聡志、中尾絢子、大谷隆、山根澪)

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(知ってる人にしか伝わらないかもしれないけど案内文:中尾聡志より)

今月末に、大阪から比良(滋賀県)に引越ししたけんちゃんが、先月に引き続き東京に来ます。今回はなっちゃんはお休みです。しかし、今回は新たな特別ゲスト、噂を聞いたことがある人も多いと思いますが、まるネコ堂の大谷さんが東京初登場です。

大谷さんは、5月に好評を博した「持ち寄り食会」の生みの親でもあり、去年僕が実施した「講読ゼミ」の生みの親でもあり、けんちゃんが最近創刊した「言語」の共同編集&執筆者でもあり、僕も去年からひっそりと多大は影響を受けている人の一人なのです。

今回、土日に大谷さんが講師でひらいてくれる「読む・書く・残す・探究ゼミ」は、わざわざ東京から大阪まで参加しに行く人がいるくらい、面白い講座。タイトルの通り読むこと書くことがテーマの講座であるにもかかわらず、あの、本を読むのも文字を書くのも苦手なじゅんちゃんでさえも「すごい面白かった!すごかった!」と言わせた講座です。

大谷さんは、家に猫が3匹いてなかなか家を空けれる機会が無いので、今回は貴重な機会です!(と、かなり大げさに言っています)(また呼びたいと思ってるしさらっと来てくれる気がします、が、貴重な機会なのは変わらない!)

詳しい講座の案内は、イベントページに任せますが、ぜひ「言葉、文章、言葉が持っている世界観、言葉によって表現されている自分の世界観、というか自分ってこんな人なんだ」みたいなことに関心のある人はぜひ参加してみて欲しいなと思います。

あと、今回は大谷さんからリクエストをもらった僕の「人差し指ピアノ(影舞もあるよ)」のWSと、けんちゃんの「声を通して本を味わう時間(仮・題名は今回ちょっと変わるかも)」を実施予定です。

今回も、「とにかく僕たちが一番楽しむことが、来てくれる人にも一番面白い時間を提供できる」ということを中心に、とことん自分たちの関心のぶつけながら、場をひらいていきたいと思います。

けんちゃん、大谷さん、そして僕とじゅんちゃん(スカイプではなっちゃんも、大谷さんのパートナーのみおちゃんも参加してます!)の、4人(6人)でつくる場に、ぜひぜひ遊びに来てください。

お待ちしてます!

中尾聡志

サイト「東西ゆくくる」

【347】現代芸術試論

ときどき美術館に行く。

最近行ったのは国立国際美術館の「森村泰昌 自画像の美術史ー『私』と『わたし』が出会うとき」

吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を読んで以来、現代美術がより面白くなった。自己表出と指示表出という吉本の概念は、言語以外の美にも通用する。

つまり自己表出と指示表出の二軸で見れば良い。

指示表出は、無限にエネルギーを投下できる方向軸である。森村泰昌の場合は「有名絵画を真似る」という軸で、この方向にどこまでも資源が投下されている。つまり無限に「それっぽさ」を追求している。

無限に投下できるというのは、無限に近づけるということで、逆に言えばどこまでも「それそのもの」には到達し得ないからこそ無限である。

森村泰昌の優れているのは生体的な視覚ではなく、純粋視覚を用いていることだ。純粋視覚というのは、「その人にとって、そうとしか見えない」という像で、これは吉本の『心的現象論序説』で提示されている。

純粋視覚で見ているので、たとえばフリーダ・カーロを真似た一連の作品には、パチンコ屋の新装開店を思わせる花輪が使われていたり、しめ縄みたいなものを頭にかぶっていたりと、もともとのフリーダ・カーロの自画像には描かれているはずがないものが使われている。それでも森村にとっては「そうとしか見えない」からそれでいい。

無限に資源を投下できる軸は、多くの芸術作品で比較的簡単に見つかる。妙な情熱が注がれているように思える軸を取れば、その作家や作品の指示表出軸と見ればいい。

そして、この無限に資源を投下できる軸に対して直交するような軸を探す。これはちょっと難しい。

森村の場合は、このシリーズの最初の作品であるゴッホの自画像(1985年)にそれが端的に現れている。森村はこの作品で高い評価を得て美術界に登場する。つまりこの作品以前では無名と言ってよかった。少なくとも本人としては無名だと思っていたはずだ。

そして、有名になる方法を考えた末にあることを発見する。もっとも最短にそこへ到達する方法は、すでに有名である芸術家そのものになることだと。そうして彼はゴッホになった。

自己表出軸はこの場合「有名になる」ことだ。この軸は、予め到達できてしまうような先着性を持っている。

森村は、有名絵画を真似る方向に無限に資源を投下しつつ、自身が対象になりきることによって有名になった。


現代芸術作品の良し悪しは、この二軸が正確に直交しているかどうかによって評価される。二軸が直交していることで、最大限の座標系を実現できる。

現代芸術はある時期まで、自己表出軸は意図的に作家によって隠されてきた。美術評論家はこの隠された軸を作家に代わって発見することで、作品を評価してきた。

しかし最近は、作家自身によって自己表出軸もあらわにするようになってきたと思う。例えば演劇の岡田利規は、作品の意図を自分でパンフレットに書いていたりする。その意図は、「死んでしまった人のことをどう考えればいいのか」「震災直後のあのユートピア感をみんな覚えているよね」といったいずれもとてもわかりやすい誰にでも思い当たるようなことである。

現代芸術の評価というものが二軸の直交度合いにかかっているからで、綺麗に直交していればそれは優れた芸術として評価される。隠す必要はもうない。この隠す必要のないところ、露骨なところが現代における現代性なのだと思う。

June 3, 2016

【346】2016年1月7日7時38分に書き留め終わった夢の話。

前のエントリーで夢の話を書いたけれど、僕は時々夢を書き留めておくことがある。書き留めておきたいからそうするということがほとんどだけど、時々、書き出さないととてもじゃないけれどいられないような時がある。この夢の記録はそういう時のもので、具体的には『言語1』の原稿を書き始めようとしている時のもの。内臓が口から吐き出されたような様相を呈しているけれど、もうそろそろ放り出してもいいかなと思う。

===
2016年1月7日7時38分に書き留め終わった夢の話。

さっき見た夢の話。

夢を見た。

父親がまだ生きていて、どうやら僕は父親と一緒に住んでいる。父親の状態は、実際に死んだ時よりは少し認知症の状態が軽いようで、僕に何やら話ができる。

わりと長い夢だったがほとんどの部分は思い出せず、最後の部分だけ覚えている。

とにかく、どういう理由でかは忘れてしまったが、父親とともに引っ越しをしなくてはならなくなって、僕は引っ越すなら病院の近くがいいんじゃないかと思っている。

しかし父親は今の家の近所がいいらしい。母親は、現実と同じで、いつも一緒に住んでいるわけではなく、おそらく母親の実家と行き来している。母親は父親の希望を聞いて、近所の売りに出ている家をいくつかピックアップしてくる。

僕の視界には地図が浮かんでいて、それは地図というものが見えているというよりも、地図を思い描いているような感じで、その地図には候補の家の場所が示されている。それを見て、あぁあそこなら駅も近いしいいかもと思う家に意識が行く。

その家は実際に売りに出されていて、こぢんまりとした古い家だが、僕は結構いい家なんじゃないかと思っている。しかし、夢の中では、その家のことを考えた途端に、テレビか何かの映像が流れだす。

これも夢の中でテレビを見ているというよりは、その映像自体が夢の中の僕の意識に再生されるような感じで、その映像は洪水でその家があった部分を濁流が流れている。実際のその家は川からは離れているのだけれど、夢の中でその家は二本の小さな川に挟まれた小さな中洲のようなところに建っていることになっていて、その両側の川が氾濫しているのだ。

この映像を僕はたぶん過去の出来事として見ていて、つまり、今のその家は以前、洪水に流されたあとに建ったということを示している。僕はすぐさま、嫌だと思う。もしまた洪水になったら、僕は父親を連れて逃げないといけないけれど、わりと体が大きく、そしてあまり体の自由がきかない状態になった父親を連れていくのはたぶんできない。

すると母親が「お父さんが誰よりも悲しむねんで」と言う。それと同時に言葉としては言わないが、もし洪水になったら、一人で逃げたらいい。あなたが死ぬことを父親は望んでいないのだから。というような意味の思念が母親から伝わってくる。

僕は本当に悲しくて「そんなことできるわけないやんか」と泣きそうな声で言って、目が覚めた。

目が覚めた途端、僕は父親が死んだのが悲しかったのだと思った。思ったというよりは、そう思わされたというか、そう気付かされたというか、自分で能動的に思うというより、そういう思いが現れる。

自分が悲しかったということを一年半後にようやく夢でわからされるということのひどい状況自体にとても悲しくなる。そうして次の瞬間、まるで映画のシーンが別のシーンに切り替わるように、息子が離婚した前の妻といっしょに家を出て行く日を思い出させられる。

あの時は僕はとても悲しかった。でもそれ自体を引き起こしているのは僕だから、どうしようもない。ただ僕はその日、そういう悲しさが表に現れるようなことをしていない。それ以前も息子の前ではしていない。

悲しいということは言ったと思うけれど、悲しそうにしたことはなかった。それは息子にとってもともとひどい話をよりひどくする現実だった。それを噛み締めながら、体の芯が震えるようなしびれが続く。

これはまずいことになった。

こういう状態になると怖くて眠ることができない。眠れないとこのまま考えが進んでいく。

あらゆることが同じ情緒の中で連鎖的に立ち現れ結びついてしまう。今はたまたま東山の和室に来ていて、一人で寝袋にくるまって寝ている。

いつもなら家で隣に澪が寝ていて、きっと揺すぶり起こして何か話をしただろうけれど、それもできない。今、澪にそばにいて欲しい。眠らず、考えたくないことを考えなくするために仕方なく、そのことを書くことにする。

書きながら自分がいかにひどい人間かを再確認し、そのことで生(なま)の恐怖に砂をかける。こうやって何度も僕は自分を砂の下に埋めてきたのだ。

この夢を見る前にも、一つとても怖い夢を見た。

アンドロイドというか動くマネキンというか、そんな感じの少女が僕を殺そうとして、僕は死闘を繰り広げる。その時も母親がいて、この母親は僕といっしょに戦っている。

最後はどうにかこうにかその少女を倒すのだけれど、僕も結構な深手を負っていて、あぁ死ぬかもなと思って目が覚めた。こうやって書いた時にはおもしろおかしく思えるB級ホラー映画のようなチープさは、夢の中ではまったくなく、それは現実そのものだった。

こんなふうに立て続けに怖かったり悲しかったりする夢を見るのは、ひょっとすると昼間に文章を書いたからかもしれない。わりと長めの文章の書き出し部分で、それはどちらかというと論文的なもので、夢で見たようなこととは全く関係がないし、情緒的なものでもない。

でも自分で書いていることに対して、僕自身が確からしさを持って書けているかを確認しながら書いているから、どこか自分の感覚や感情の扉を開いて中を見るようなところがある。

書き終わっていないから、その扉が開けっ放しになっているのかもしれない。そう思うと書き続けることすらも不安が出てくる。いろいろと困っているが、少し落ち着いてきた。

新聞配達のバイクの音がしていて窓の外が明るい。何度も経験したことがある慢性的な眠気を感じる。それが一番確かであってほしいと思うとき、最も脆くなる。こんな箴言がどこかにありそうな気がする。

【345】夢を見た。

長い夢だったと思うが覚えているのは終わりの方で、雑誌か新聞かで友人のいとーちゃんの作品が何かの賞を取ったことを知る。

その作品は、半透明のプラスチックの衣装ケースを小さくしたようなものの中に、ミニチュアの掃除機が入っている。その掃除機はミニチュアだけどちゃんと動いていて、ブーンという音をたてている。掃除機のホースが柔らかい素材になっているのか、それが脈動するように膨らんだり縮んだりしているのがわかる。小さな四角いカラフルなアラーム時計もケースの中に一緒に入れられていて、時折ピピピピと音がなる。どうやらアラーム時計と掃除機が連動しているらしい。そういったものが半透明のケース越しに見えていて、全体としてキッチュなタッチの造形というか雰囲気を持って完成度の高いものになっている。掃除機もどことなく漫画っぽいデザインで、アラーム時計のデザインとうまくあっている。僕はとても現代的な作品だと思っている。

僕は、あぁ、いとーちゃんならできちゃうだろうなと思う。現代芸術家として生きていくというわけでもなく、そこに執着するわけでもなく、それでも何かきらめくような才能がある感じを僕は肯定している。

僕はどうしてこの作品が現代的なんだろうと思って考えているうちに、ある図が思い浮かぶ。垂直軸と水平軸があり、一本の曲線がその原点から右斜め上に立ち上がり、もう一本の曲線が垂直軸の上の方から右斜め下に垂れてきて、その二本が中間ぐらいで接して一本の直線になって右の方へ伸びている。図にはキャプションがついていて「キール曲線(現実領域と幻想領域と不条理領域)」というようなことが書かれている。

その図に僕は納得して、いとーちゃんの作品はキール曲線上に位置しているのだと思う。不条理性というか非現実性をとても現実的なモチーフでしかもそれをキッチュな馴染みの良いタッチでまとめて、作品自体を不条理に落ち込ませないで持ちこたえさせているのだ、というようなことが評価されているのだなと思う。

それからしばらくして、どこかの都市で何人かの友達と待ち合わせている。大きな道路を車が通っていて、その脇の広めの歩道に路駐の自転車が並んでいる。背景に道路を通る車の音がずっと響いていて、見あげればたぶん高速道路か何かの高架が見えるだろうと思っている。

友人は全部で4、5人で、いずれもいとーちゃんとも仲がいい。しかし、それが具体的に誰なのかは、夢のなかではなんとなくわかっていた気がするのだけれど、特定することができない。短い時間のなかでくるくるとその友人が別の人に入れ替わっていくというか、その瞬間瞬間は、あぁ誰々だ、と思っているのだけれど、同じ人が別の瞬間には別の誰それになっている。

その友人たちは総じて、僕の古い知人たちのようで例えば僕が最初に勤めていた会社の同僚のような感じがする。今はほとんど連絡を取っていない。それがいとーちゃんの受賞を機会に集まって、いとーちゃんにお祝いをしようと相談している。

広い歩道の自転車を縫うようにそれぞれがバラバラに歩きながら、どうしようか、みたいなことを言い合っている。そのうち一人の女性が、いとーちゃんの作品に使われていた市販のアラーム時計をみんなで買い揃えればいいと言い出す。その時は僕もそれはいとーちゃんへの良いお祝いだと思ったりしている。目が覚めてから考えるとどうして僕達がそのアラーム時計を買い揃えることがいとーちゃんへのお祝いになるのかイマイチ釈然としないが、その時はそういうことは思わない。

そうしてアラーム時計をみんなで買うということになりそうで、でもそのころになると僕は、でもやっぱりアラーム時計を買っても僕は使わないだろうなぁと思い出す。そうして、しばらく考えて、僕はいとーちゃんに手紙を書くことにして、それをその友人の中で一番僕が親しい人にそれを話す。その友人はその瞬間はけんちゃんになっていて、なんとなく僕のいうことを肯定してくれている感じがする。

そうして、僕は、手紙は手書きがいいか、パソコンで作って印刷するのがいいか、その手紙をもらったいとーちゃんは戸惑ったりしないだろうかと考えているうちに目が覚めた。

夢の全体的な雰囲気としては、とてもライトで都市的な感じがベースにあって、昔のトレンディドラマのような軽さがある。

June 2, 2016

【催し】6月10日(金)大つくろいデー。ジーンズを手縫いで繕います。

ジーンズは3本持っていてそれをひたすらはいているのだけれど、一本、お尻のところに穴が空いてしまった。お尻全体の生地が薄くなっていて、以前繕って補強していたのだけれど途中で疲れてやめてしまっていた部分。
お尻のところに穴があいた。
右ポケットの穴は別に困らないのだけれどお尻は困る。
実はもう一本のジーンズも薄くなっているところがあって、こっちも繕っておかないと近い将来穴が空くのは確実。

ということで、繕おう繕おうと思っていたのだけど、なかなか着手できない。以前は定期的にていれとつくろいのワークショップをやっていたのでその時にちょこちょこやれていたけれど、ワークショップをやらなくなると途端にこうなる。

それで今度、一日かけてじっくり繕いをしようと思います。パートナーの澪も繕いたいものがあるということで、一緒に。

せっかくなので、もし一緒に繕いたいという方があれば、おいでください。
ワークショップ形式ではないので、各自それぞれで繕う感じですが、わからないところがあったりしたら一緒にやれるとおもいます。

日時:6月10日(金) 10時ぐらいから18時ぐらい 途中参加途中退出自由です。
場所:まるネコ堂
参加費は設定しません。もしよろしければ投げ銭を。
刺し子糸はワークショップをしていた時のものがあります。
アイロンもあります。
針などの小さな道具はお持ちいただいた方がいいですが、若干なら貸出もできるかな。

行くよー、という方はメールいただけるとうれしいです。
marunekodo@gmail.com

食事はいつもの様に適当にパスタでも作りますので、一緒に。