私の天性をうまくえがきあらわしている場合が私の生涯にあるとすれば、つぎに物語ろうとするのがそれである。この書物の目的をあらためてつよく思いおこすならば、その目的をはたすさまたげとなるようないつわりのとりつくろいは、この際断乎としてしりぞけなくてはならないであろう。諸君が誰であろうと、いやしくも一個の人間を知ろうとするならば、どうかがまんしてつぎの二三ページを読んでいただきたい。諸君はジャン-ジャーク・ルソーなるものを、全面的に知るに至るだろう。この変なテンションで引っ張られると先を読まざるを得ない。「ジャン-ジャーク・ルソーなるものを、全面的に知るに至るだろう」って。よくまぁ書けるよね。
私はまるで愛と美の内陣にはいるように、一人の娼婦の部屋にはいったのだ。
(ルソー「告白録(中)」巻七)
で、朝起きると今日も一日雨。電車が止まったりしている。昼間は、キャラペイスのサイトの修正をした。スマートフォンでの見やすさがちょっと上がったと思う。
夜はロームシアター京都にチェルフィッチュの公演、ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』を観に行く。
JRが軒並み止まっているなか、ギリギリ開演3時間前の16時というタイミングで開催を決定すると言われても来れる人は少ないんじゃないだろうかとか、終わったあと帰れるかどうかも怪しいじゃないかと思ったが公演は素晴らしかった。
そう。素晴らしかった。
チェルフィッチュは好きでいくつか観てきたが、正直これは期待してなかった。だから余計にかもしれない。見事にやられた。
いやだって、ドイツ人役者でドイツ語で現代的な能だなんて、あまりにも実験実験しすぎていて、きっと微妙な見終わり感になるだろうと予測していたのだ。それが、まるっきり裏切られた。
能は何回か観に行っていて、結構好きなんだけど、今夜ようやく能の面白さをフルスペックで味わえた気がする。幽霊が出てきて、自分がなんで死んだのかを説明するというだけなのに、こんなにもドンドンドンと迫ってくる。ほんとに説明的に説明しているだけなのに(もちろん「だけ」なわけはないのだけど)。
シンプルでわかりよいにもかかわらず、幅も奥行きもある。重厚感も軽やかさもある。高貴さも下世話さも。サクサクとした歯ざわりなのに中はしっとり。全部ある感じがすごい。通俗に媚びたり、意味深に逃げたりしない贅沢さがきっちり詰まってる。
『新潮(7月号)』に戯曲が載っているらしい。買ってしまうではないか、これは。
とまあ、最上級。しばらく思い返すだろうな。
アフタートークで岡田利規さんは、能のストラクチャーはとても良くできていて、やりたい題材がいっぱいあると言っていた。今後も散財しそうである。