「ものしり宣言!」というコピーで、 本を売ろうとした時代があったというのも、 もはや神話的事実。 |
古代ギリシアは西洋文化の基礎的地盤で、現代でもあちこちにその断層が現れている。ハイデガーを代表に、西洋哲学を読んでいれば必ずここに突き当たる。
トロイア戦争、パンドラ、オイディプス、オデュッセウス、ペネロペイアなどなど、一応は知っている固有名が整理されている。それらの神を含む人間の系統関係、都市の位置関係など、物語のあらすじを追うことで復習できる。
興味深かったエピソードはやはりオイディプス。このエピソードは他と比較してもよくできている。阿刀田のよくまとまったあらすじをさらにあらくまとめると、
テーバイのライオス王が「男児を得るときは、その子が父を殺すだろう」という神託を得る。生まれた子、オイディプスを山に捨てる。オイディプスは隣国の王の子供として育てられる。オイディプスも「故郷に帰ってはならぬ。お前は父を殺し、母を娶るであろう」という神託を得る。悩んだ末に、故郷だと思っている道とは逆の道を行く。その道すがら、老人と諍いを起こし、老人を殺す。それがライオス王。つまり父だが、名乗らなかったのでオイディプスは知らない。逆の道を行ったことで本当の故郷であるテーバイにたどり着く。やがて、亡きライオス王の妻で王妃イオカステを娶り王となる。それが母であるが、これもオイディプスは知らない。王になった後、テーバイに次々と災いが起こる。神意を伺うと「先王を殺し、人倫にもとる行為を犯したものがいる。その者を探し出し、国外に追放しなければ神の怒りはけっして静まらない」。オイディプスは調査した。犯人は自分であった。この、自分ではどうしようもない成り行きの緊密さは物語としてとても優れていると思う。
ペネロペイアとオデュッセウスのエピソードも良かった。ジョイスの「ユリシーズ」が、ホメロスの「オデュッセウス物語」を下敷きにしているので、ジョイス好きとして、一応参考文献でホメロス自体も読んでいるのだけど、僕には面白く読める文章ではなかった。本書はそれを作家の筆でうまくまとめてくれている。
といった感じで、期待していたよりは楽しめる本だと思って読み進めていた。そして最終章。実はこれが一番衝撃だった。
「古代へのぬくもり」と題したこの章に登場するのは、19世紀のドイツに生まれた一人の少年ハインリッヒ。
七歳になったとき、父親がトロイア戦争の伝説を話してくれた。ハインリッヒには判官贔屓の傾向があったのかもしれない。敗北したトロイア方におおいに同情し、落城の話を聞いて涙を流した。19世紀当時、ホメロスが歌った「イリアス物語」と「オデュッセイア物語」は、
「馬鹿だな。これはみんな作り話で、本当にあったことじゃないんだよ」
と、父が慰めたが、少年は首を頑なに振って承知しようとしなかった。[226]
どちらも当時の人々に広く親しまれていたが、これが歴史上の事実を基にして作られたものとはだれも考えていなかった。[227]夢見がちな少年は、しかし、そう考えなかった。
「こんなに大きなお城(トロイア城ー引用者)がぜんぜんなくなってしまうはずがないもん」と父に約束する。
少年は来る日も来る日も同じことを考え、同じことを主張した。そして、最後は、
「じゃあ、ぼくが大きくなったら、きっと発見してみせるよ」[226]
数十年後、商売で築いた財を投じハインリッヒ・シュリーマンは発掘を開始する。特筆すべきは、それまで推測されていた場所とは異なる場所を掘ったこと。シュリーマンは「現実にあったこと」としてホメロスを読み込むことで、〈確信を持って〉ある場所を掘る。
結果、世紀の発見 である。
ウィキペディアのハインリヒ・シュリーマンの項目にはこうある。
ドイツの考古学者、実業家。ギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアを発掘した。もっとも阿刀田が紹介した少年時代のエピソードはウィキペディアには「功名心の高かった彼(シュリーマンー引用者)による後付けの創作である可能性が高い」と書かれていたり、不適切な発掘で遺跡が損傷しているともあって、若干興ざめではある。
がしかし、その興ざめな「実はこれこれであった」も含めて、この話自体が神話的である。本書の最後を彩るにふさわしい。