〈講師〉のけんちゃんのブログから、関連エントリー2つ紹介。
音読合宿のご案内音読とピアノと絵本音読についてこれだけの文字数で何かを書くということ自体、なかなかできることではないわけです。こういうことは何についても言えるのかもしれなくて、それはつまり、けんちゃんのブログから借用すれば、
齋藤孝さんが昔、「教え力」という本で教師のもっとも根幹をなす力は、それそのものが大好きなのを生徒に見せることだ、と言ってましたが、これは本当にそうなんじゃないかと思います。ぼくなりにその意味を咀嚼すると、膨大な時間をそのことに投入して、伝えるのに余りあるくらいいろんなことを考えた経験、ともいうようなもの。 (音読とピアノと絵本)です。
ここで、自分が膨大に何かを費やしてやっていること、というのが例えば、国語や算数、絵や音楽といった、すでにこの世に存在する明示的な場所でドンピシャに言い表すことができるのであれば、実はそれはとても幸運なことです。
多くの場合、自分が一体〈何に〉注ぎ込んでいるのか、それ自体がはっきりせず、その〈何〉を探し求めてさまようことになります。自分は何にも興味はない、何にも注ぎ込んでいない、という人も、実は、注ぎ込んでいる何かが明確でないという可能性があるのです。その場所を抽出する言葉を見出していないだけなのかもしれません。
〈音読〉も、取り出された「あと」には、ある一つの場所を形成しますが、取り出される前はただ、一つの行為です。あえて言えば、取るに足らない行為です。
で、以前のぼくもそうだったんですが音読ってちょっと気恥ずかしい。というか、苦手というか、読むのも聞くのもそれほど好きじゃないというか、まあほとんど嫌い、なんじゃないかと思うんです。大抵の人は。(同上)しかし、そこに注ぎ込まれている膨大な何かを基礎にして示された〈音読〉はもはや、一つの行為であることを越えるとともに、それまではなかった場所を持ち、さらにその場所すらも越え出ようとする運動性が備わります。溢れ出るように。
こういうことってとても重要だと思っています。とてもワクワクします。ワクワクするということそのものです。
試して、繰り返して、面白がる音読三昧の30時間合宿