July 11, 2018

【432】『NŌ THEATER』の戯曲を読む

ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』の戯曲が載っているというので新潮7月号を買う。

戯曲はこんなふうに始まる。
  舞台は東京の地下鉄のプラットフォーム。 
能「六本木」
 男(シテ)かつて投資銀行の証券部門で勤務していた男
 青年(ワキ)
 駅員(アイ)
 地謡 駅員と一人二役 
  青年登場。 
青年(次第)
 世の中は、僕に対する需要はない。
 世の中は、僕に対する需要はない。
 暇だけは、だから有り余ってる。
能の形式の現代文を読むというのがなかなか面白いことだ、ということに気がつけただけで大きい。買ってよかった。岡田利規さんは「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集10」で能、狂言の現代語訳を担当している。以前本屋で見かけたのだけど、もう一歩乗り切れなくて買えなかった。今度は買おうかな。

『NŌ THEATER』を観ているときに、能について、なるほどこういうことだったのかと気づいた点がある。

 接点のない振りをしたままでいることは、容易にできる。
 難しくもなんともないだろう。人によっては。しらを切り通す。
 そのほうが私にだってほんとうのところ、都合がいい。 
地謡
 けれども私と君には接点がある。実のところ。
 私が犯した罪、
 希望のない若さという残酷な事態を生み出した罪によって、
 私と君はつながっている。 

 私の罪。
 いや、これは決して私の罪ではない。私だけの罪ではない。
 あのときの私には為す術がなかったのだから。
 ただ手を拱いているよりほかは。 
地謡
 だから君を呼んだのだった。
この地謡が男(シテ)のセリフを代弁するところ。男は地謡と対話しているわけではなく、青年に話しかけている。その男のセリフの一部を地謡が担当している形になっている。

(伝統的な)能でもこういった地謡はもちろんあって「主人公の心の中を謡ったり」すると説明されている。のだけど、なんでそんなことをするのだろうと思っていた。

現代的なリアリズム表現の感覚では、物語の主人公の内的独白を主人公がそのまま口にするのは物語の進行上好ましくない。だから語り(ナレーション)を別に入れたり、当人の声であっても明らかに内的独白だとわかる演出で喋らせたりする。

しかし、能のような形式的な表現では、さほどの違いはないのではないのかと思っていた。地謡に言わせずに自分で言えばいいんじゃないのかと思っていた。あるいは、自分で言うところと、地謡が言うところに分離させるのであれば、その分離の基準はいったいどこにあるのだろうという疑問があった。

たとえば、引用した部分すべてを男のセリフ(モノローグ)としても意味上は問題がないではないか。理由があるとしたら、掛け合いとすることでテンポを良くしていることぐらいではないか。

ようするに、僕は能というものをあまり理解できていなかった。

それが実際に舞台を観て、なるほどこれは「自分で言わない」ことの効果を狙っていると気がついた。自分で言うのではなく「他人に言わせる」、「地の文で書く」その効果。

いじめっ子のリーダーが黙って腕組みをし睨んでいる。その背後で取り巻きが「お前みたいなやつは……」と囃し立てるあの構図。あるいは、中世以前の王が、話し相手が目の前にいるにもかかわらず、側近にだけ話し側近が王の言葉を「王様はこうおっしゃっている」と代弁をするあのやり方。喩えが悪いのは許してほしいが、とにかく「自分で言わない」効果があるのだ。

主体的な内容の言葉であっても、他人が言うことで、主体の限界を超えて、「客観」的に響く。他者を経由することで、梃子が働いて強化される声。拡声器のように「通常の〈一人の人間〉の声」を超えている。

あと、会話のテンポに関連して言えば、意味的にはモノローグであるはずが、形式上は半ばシテと地謡との対話になっている。そのために、話し手がシテ・地謡と代わってもずっとシテの言い分(番=ターン)が続く状態になって、捲し立てていく効果もある。この間、ワキはただ黙って聞くしかない。観客もまた、それを浴びる。


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