「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく
この論考から「だから対立が重要なのだ」という方針を取り出したとしても残念ながら、対立は円滑の補完でしかないから、新たな別の円滑が生み出されるだけだろう。
コミュニケーションを「円滑か対立か」という二項対立として捉えるところから矮小化ははじまっている。二項対立はすべて「内部と外部」の問題だと喝破した(と僕は読んだ)デリダを思い出す。ウチかソトか、でしかない。
しかし、Twitterなどの比較的ランダムな「現代的交流サービス」ですらむしろ、より強く円滑か対立かに単軸化されている。想定していなかった結びつき(誤配)や想定しない一方的な送りつけ(散種)ももう、この軸から逃れられないのかもしれない。
さて、この問題を言語的に〈セット〉してみよう。
まず、コミュニケーション、コミュニティ、コミュニズム、といった西洋語の同語群による問題系は、それほどまだ僕たちには身についているわけではないのではないか。明治以降150年ではこの段階ということなんじゃないのか。
歴史的に他者移入にさらされ続けた僕たちのやり口。まず遠目に見て見ぬふりをしつつ、遠回しにして、やがて馴染み親しんでいくという時間を使った〈保留〉のやり口。アイスブレイクが即時的な建前に回収され、時間のかかる本音のレベルに到達しない、そんなやり口。
その上に被さってきた「コミュ(com)たち」。コミュニケーション、コミュニティ、コモン、コメント(評言)、コマース、カンパニーなどなど。「コミュ障=com障」とはよく言ったもので、これら全般とその大元の未消化を表している。明治とはつまりcom同語群の集団的外来と言えるのではないか。
〈com〉と〈共に〉ということ自体からして、僕たちは西洋語と異なっている。僕たち日本語の他者の概念には時間性が組み込まれている。この時間性は、どれだけの時間一緒にいるかということ以前に、順序としての時間である。集合的である〈前に〉個的であるという〈順序〉がある。個的であることの後に〈ともに〉が来る。個的であることが「コミュニケーション」の土台である。
〈とも〉は「共」だけでなく「友」を伴っている。友が友であるためには、私が私でなければならない。〈私たち〉はあくまでも「私+たち」であり、〈我々〉はあくまでも「我+我」である。〈I〉と〈we〉のような別種の言語的ニュアンスをもたない。
〈com〉と〈共に〉ということ自体からして、僕たちは西洋語と異なっている。僕たち日本語の他者の概念には時間性が組み込まれている。この時間性は、どれだけの時間一緒にいるかということ以前に、順序としての時間である。集合的である〈前に〉個的であるという〈順序〉がある。個的であることの後に〈ともに〉が来る。個的であることが「コミュニケーション」の土台である。
〈とも〉は「共」だけでなく「友」を伴っている。友が友であるためには、私が私でなければならない。〈私たち〉はあくまでも「私+たち」であり、〈我々〉はあくまでも「我+我」である。〈I〉と〈we〉のような別種の言語的ニュアンスをもたない。
〈私〉があってはじめて〈私たち〉がある。
と、少なくとも日本の、明治以降に文学的に作られた〈標準語〉で考える限り、西洋語との乖離、西洋との乖離は必然だし、この乖離によって引き起こされた不安と不安定が、ウチとソトという強力な二項対立系に回収されてしまうのは仕方のない成り行きかもしれない。
だから?
と言われてもなかなか難しいのだけれど、いずれにせよ、現代日本の問題を見るときに、現代日本語は糸口を提供してくれる。
つまり、comの問題系は、〈私〉と〈私たち〉との間に横たわっていて、〈私〉が〈私たち〉と言うときにcomの問題系は立ち上がる。現代日本におけるこの手の一切合切は、「私とあなた」という二項対立として取り出すのではなく、「私と私たち」あるいは「私や私たち」といった言語の領域に再セット(リセット)できるはずだ。
問題を、言語から取り出して分離するのではなく、言語という土壌へ埋め戻すことで何かが芽吹くかもしれない。そういうやり方があると僕は思っている。
と、少なくとも日本の、明治以降に文学的に作られた〈標準語〉で考える限り、西洋語との乖離、西洋との乖離は必然だし、この乖離によって引き起こされた不安と不安定が、ウチとソトという強力な二項対立系に回収されてしまうのは仕方のない成り行きかもしれない。
だから?
と言われてもなかなか難しいのだけれど、いずれにせよ、現代日本の問題を見るときに、現代日本語は糸口を提供してくれる。
つまり、comの問題系は、〈私〉と〈私たち〉との間に横たわっていて、〈私〉が〈私たち〉と言うときにcomの問題系は立ち上がる。現代日本におけるこの手の一切合切は、「私とあなた」という二項対立として取り出すのではなく、「私と私たち」あるいは「私や私たち」といった言語の領域に再セット(リセット)できるはずだ。
問題を、言語から取り出して分離するのではなく、言語という土壌へ埋め戻すことで何かが芽吹くかもしれない。そういうやり方があると僕は思っている。