July 7, 2018

【428】幽霊と災害とチェルフィッチュ

案の定、昨日観たの『NŌ THEATER』の余韻が続いていて、今のうちになにか書いておきたいという気分になって、フェイスブックにも記事を書いた。ブログにも貼り付けておく。

のだけど、その前に。

今日も雨は降っている。奈良線は運転を見合わせている。フェイスブックでは誰々の「無事が確認されました」と通知が来る。

この状況で演劇を観に行き、その上感想をフェイスブックに掲載するということに対しては、微妙な、いや、かなりの自己規制が働く。ふさわしくないのではないか。顰蹙を買うのではないか。そういうことを考えた。そういうことを考えたことによって、思い出したことがある。災害に関して、ふさわしくない、顰蹙を買うようなセリフがある演劇があった。

他でもないチェルフィッチュの「部屋に流れる時間の旅」で、この演劇は「あの地震」をテーマにしている。感想をブログにも書いていた。


思っていても言えない。言いにくい。そういう状況で何かを言いやすくするということと演劇は高い親和性がある。むしろそれこそが〈芝居〉という言葉の意味なのだろう。

ついでに、もう一つ、チェルフィッチュの演劇について書いているエントリーがあった。

【035】旅はどこへ行くかではなくて、どれだけ持っていけないかだ。

チェルフィッチュはとても高い確率で僕を刺激する。

以下、今日のフェイスブック投稿。
===
昨夜ロームシアター京都のミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』を観た。

雨の中、出ていくのはうっとうしくて、下手をしたら帰りの電車が止まるかもしれない状態で、正直言えば中止にして払い戻してくれればいいのにと思っていた。

ドイツ人の役者がドイツ語で演じる現代的な話を能としてやるという幾重にも実験実験した試みだから、もともと期待値は低かった。チケットを買ったのはだいぶ前で、今になって4,500円は高いよと思い始めてもいた。

が、素晴らしかった。

今日・明日と公演は続くので具体的な内容については触れないが、能ではお決まりとも言える幽霊が出てくるパターンで、通りがかった旅人に幽霊が自分が何故死んだのかを話して帰っていくというだけのことである。それが妙に迫力がある。

(伝統的な)能は何度か観てもともと好きなんだけど、あぁこういうことをやっていたのか、と改めて能を発見した気がする。能の面白さを、現在の自分がいる世界の出来事として、フルスペックで楽しんだと言ってもいい。

アフタートークで作演出の岡田利規さんは、能のストラクチャーがものすごく良くできているから、そのまんま使って現代的な題材をやっただけと言っていた。

岡田さんの話はいつもとてもわかり易く、なんの不可解も神秘性もないのだけど、にもかかわらずとても面白い。

岡田さんは、幽霊(亡霊)を個人的な怨念ではなく「社会的でコレクティブ(集合的)な」怨念の依代と捉えている(捉えることができる)という。そう言われるとたしかに、だれでも一つ二つは社会的集合的亡霊が思い浮かぶはずだ。

「わたしの幽霊」ではなく「わたしたちの幽霊(亡霊)」。たったこれだけのワードで物語が立ち上がる。

以下、僕の個人的な興味(例によって言語や言葉の話なのだけど)。自分がどうして死んだかを淡々と説明的に話すその話しぶりが妙に差し迫ってくるのが面白かった。

説明的である、知識的である、情報的である(今回の公演のセリフはこのいずれの形容も当てはまると思うのだが)というのはだいたい「伝わってこない」という罵倒の語彙として使われるけど、そういう人に、一体何が「伝わる」のだろうと思ってしまう。予め自分の中にある情緒性を想起させ再現させることしか「伝わった」と言えないのであれば、それはどこからも何も「伝わって」いないではないか。


Share: