January 10, 2020

【568】死を想う。

僕には定期的にこういう時期がある。ふと気がつくと自分の死について想い巡らせてばかりいる時期だ。定期的にと書いたけれど、それがどのぐらいの周期で前回はいつだったのかというようなことを明確に言うのは難しい。ただ、いつも、気がつくと自分の死について想い巡らせている。こういう状態がいわゆるうつ病などの精神疾患とされるものと地続きなのは間違いないと思うし、事実、僕も20代や30代のころは診察を受ければ何かしらの診断が下っただろう症状を呈したりもしていた。

しかし、今は違うように捉えている。譬えて言えばこの時期は、ある特別な季節のようなものだ。こういう季節がある。こういう季節が時々巡ってくる。そしてこういう季節にはこういう季節なりの必然性がある。だから、この時期の状況を「何かに囚われている」などと言った文言を使って健常ではないという意味合いで「治すべき不具合が出ている」と捉えるのは間違っている。

もちろん若かった僕がそうであるように、死に至る危険性のある季節であるのは間違いないが、乾季には乾季の雨季には雨季の冬には冬の夏には夏の過ごし方があり、それぞれの季節に特有の死因がある。それと同じでこの季節の特有の過ごし方と死因があるだけだ。冬は寒くて凍死者が出るから冬をなくしてしまえというのは間違っている。冬という時期は「本来あってはならない」時期ではない。

季節という比喩が美しすぎるというのであれば、二つの異なるプレートの境界で歪みが蓄積しそれが解放されることで起こる地震をイメージしても良い。プレートが動いている以上、この地震は必ず起こる。そして、地表を変化させる。多くの人が死ぬ。人が死ぬからと言ってプレートを止めることはできない。できるのはどう過ごすかであり、どう過ごしたとしても死んでしまう可能性はある。

端的にいえば、僕はこの死を想う時期を肯定的に捉えている。もちろんとても寂しく、不安が募るが、同時にいつの間にか僕の中に蓄積されていた歪みが解放されて、僕自身の基礎が変化する時期だとも感じている。少なくとも僕は定期的にそういう時期を過ごしてきたし、それは必ずしも悪い時期ではなかった。

過ごし方も特別なことは何もない。ただ、いつもより少しゆっくり過ごしたほうがいい。空の青がやたらときれいに見える。コーヒーが甘く感じる。


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