May 31, 2018

【420】定番と暫定。

定番とは、ヘビーユーザーほど支持するものである。反復への強靭さであり、常にここにあるものである。

できることならすべてを定番にしたい。それさえあればいいというもので世界を覆い尽くし、閉じてしまいたい。この願いは少しずつ着実に進めることができる。

しかし成就されることはない。無限の彼方に目標点があるからではなく、別の原理によって根こそぎ引き抜かれるからだ。

面白いという観念に定番は存在しない。面白さのヘビーユーザーから支持されるある単一の面白さというものがない。これさえあればいいという面白さは、面白さのヘビーユースを満たさない。面白さとは「常にここに無い」。

言葉に定番は存在しない。言葉のヘビーユーザーから支持されるある単一の言葉というものがない。これさえあればいいという言葉は、言葉のヘビーユースを満たさない。言葉とは「常にここに無い」。

動的な全体性そのものがそれであるようなもの。局所的な出来事が、常に全体を動揺させるような暫定存在網。それがそこにあることによって、それ自体が変質してしまう、そのようなそれである。

局所的なことを局所に留める減衰の快楽がある。それさえあればいいと受け止めることで、それ自身を疎外する。定番世界は、土台の強靭さを誇り、閉じた安寧を快楽視している。

動的な全体性そのものの快楽がある。それによってそれ自体が変わってしまうことで、それ自身を蝕む。暫定世界は、すべてを動員して、開いた好奇を快楽視している。

この二つの世界は折り合わずに同居する。別居できない。

May 30, 2018

【419】本だけ読んで生きていたい。ルソーに耽る。

今週末にデリダのゼミなので『グラマトロジーについて』を読みながら、ついでにルソーの『言語起源論』と『告白』を読む。ついでと言ったけど「グラマトロジーについて」の第二部はルソー論で、特にこの二作をデリダが読んでいるから、真面目にやるとしたらちっともついでじゃないんだけど。でもまぁついでで。デリダ読むついでにルソーも読んでしまえという感じで。

そしたら面白くて、デリダそっちのけで読み耽っている。たぶんデリダは、ルソーの中で特に面白い二作だからこれらを軸に据えたんではないだろうか。それとも『エミール』あたりも面白いんだろうか。面白いんだろうな。『孤独な散歩者の夢想』も。

まったく。いまさらルソーかよ。

馬鹿みたいに影響力のある洞察を無造作につかみだす。『言語起源論』なんか、これの一体どこが「論」なんだと思うような大雑把な短い文章だけど、燦めきがすごい。合ってるとか合ってないとかいうのが野暮だという気分になる。『告白』は生々しいのにちっとも嫌味じゃなく、白々しくなく、いつまでも読んでいたくなる。

言ってみれば、ただの天才である。

May 25, 2018

【418】万年筆を使う理由。

筆記用具には万年筆を使っている。書き味がいいから、見た目がカッコイイからというのもあるのだけど、最大の理由は、僕には分類ができないからだ。

筆記用具のことをそれほど考えていなかった頃、僕の周りには安物のボールペンが散乱していた。シャツの胸ポケットに赤ペンを一本入れていたつもりがいつのまにかなくなっていたり、3本になっていたりした。本棚やテーブルなどいたるところにペンが転がっていた。ペンが無いと探し回って、最後に机の引き出しを開けると10本ぐらいのペンが雑然と放り込まれているのを発見したりした。簡単に言えば僕は整理整頓ができない。

整理整頓されていなくても気にならないのなら問題はない。でも気になる。使いたいときに無いとかなりイラつく。こういう問題に対して、各種の整理整頓ノウハウは役に立たなかった。整理整頓の仕方がわからないというわけではなく、もっと根深いものがあるのだ。

同様の問題は、僕の編集業務において「適切な見出しが立てられない」こととしても現れている。正確に言えば、僕が立てた見出しは多くの人が同一の文章に対して立てる見出しの立て方とはどうやら違うようだという仕方で認識される。それがうまくいく場合もあるが、うまくいかない場合もある。うまくいかない場合、代替する案を考えるのはかなりの苦痛を伴う。

事は習慣や技術の位相である前に、認識や思考の位相にある。

このブログにはラベルをつけているが、ラベルは文章を書き終わったあとに僕の「印象」としてつけている。食べ物の話であるものが言葉の話であったり、社会の話題として書き始めた記事が僕自身固有の話題に終着したりする。「生活」という大カテゴリーの中の「食べ物」の更に下位の「メニュー」に格納されるような記事の書き方をそもそもしていない。書き方がそうなっていない以上、書き上がったものを階層的な分類に格納することは不可能である。書くこと、つまり思考や感覚の位相からして、僕は分類ができない。

こういうことを書くと「階層的な分類なんて外的なものに過ぎないのだから、そうじゃなくてもいいんだよ。もっと自由に」的な主張をしようとしているように読めると思うのだけど、そうではない。僕だって分類できるものなら分類したい。もどかしい思いもしている。分類できる人は素晴らしく美しく分類できる。その美しさに僕はいつも感嘆している。

同時に、習慣や技術のレベルではなく、思考や感覚のレベルこそが大事なんだということが言いたいわけでもない。この手の思考パターンは非常によく見られるのだけれど、抽象化された二つの区分に対して、そのどちらかを選んで優劣を回収すること自体が的を外している。

ある抽象化はそれに基づく具象との連関のなかでしか捉えることができない。ある問題とは、僕という一つのまとまりとしてのあるもののうちで生じている一つの具体的な問題であって、僕という一つのまとまりから抽象した二つの区分の優劣の問題ではない。

習慣・技術の位相と思考・感覚の位相は、相互に関連はするが明瞭に上下がある。思考・感覚は下部で土台を形成し、習慣・技術は上部で建屋を形成する。どちらがより重要かというのは問題ではなく、その位置関係として重要である。

いずれにせよ、僕なりのやり方の構築と、それが他者に認められることとは別の局面の話であって、特に、僕なりのやり方をこれから構築しようとするときに、他者からの認知性や他者への認知性は二次的なものである。それは「あとで」直面する以外にない。

さて、筆記用具。

対策を取ることは嫌いではない。このとき、取れる対策は、問題の根の深さに応じて自由度を得る。根本的な問題であればあるほど、画期的に考えることができる。

1 整理整頓や分類が必要になるのは、それが複数あるからだ。

2 そもそも筆記用具など使わなくてもいいのなら、それが最善の策になる。

3 しかしどうやらそういうわけにはいかない。僕は書きたい。書きたい以上は少なくとも一つ必要になる。

4 一つだけならば、一生僕はそれだけを使えばいい。これで分類や整理整頓による問題はほぼ無効化できる。

5 だとしたら、何を選べばいいか。

僕にとって筆記用具という問題を解決することは、このような問題を解くことに等しい。そして僕は、このような問題を解くことが好きなのだ。万年筆はそのようにして導かれ、試行され、検証された。

試行と検証の段階では、思考・感覚から紐付けられてはいるが、その重心は習慣・技術の位相に移っている。紐の端がどこへ着地するのか。試行され、検証されていくことが技術や習慣となって現れる。

こういう経路をとってたどり着いた僕にとって万年筆とは、使う気になるもの(使い心地が良いもの)で、おそらく死ぬまで使え、これだけ持っていればいいものである。たとえ、現時点でという留保がついたとしても、かなりの射程を持っている。

さて、このエントリーにラベルをつけるとしたらどうすればいいのか。ある具体性を持って上下の位相を貫くように書いたとき、すべてが不可分に見えてくる。

May 24, 2018

【417】注意力が低下し、行動力が上がっている

アメフトの件で実は一番気になったのがこのニュース。

日体大、思わぬとばっちり アメフト日大と混同されて(朝日新聞デジタル)

いや、笑い話ではなく。

日本大学と日本体育大学を誤認する程度の注意力しか示していない案件にも関わらず、当該組織(だと思っている)相手に対して、直接、誹謗中傷できる人。それがどうやら少なからずいる。ということ。(そしておそらく、誤認していない、つまり日本大学への「誹謗中傷(もしくは抗議)」は膨大な数に上っていると予想される)

注意力が低下しているにもかかわらず行動力が上がっている。

あるいは、二つの低下が重なっている。誤認してしまう注意力の低下と「誹謗中傷(もしくは抗議)」できるハードルの低下。この二つの低下は同一のことなのかもしれない。

似たような方向を感じる事件として、弁護士への大量の懲戒請求がある。懲戒請求内容の例を見た限りでは、それが本当に懲戒請求に値するのかどうかを検証しようという請求者の意志は感じない。

そこにあるのは同期と手応えへの過度な傾倒だ。自分と同じ憤りを感じる人との同期と、その憤りを相手に直接ぶつける手応え。この二つが極端に強調されてしまっている。ように見える。

このエントリーではネガティブな様相のものだけを取り上げたけれど、ポジティブな様相も現れているかもしれない。

これについては、考え続ける。

May 23, 2018

【416】晩ごはん「昨日の残りと鳥肝」

昨日の残りの赤飯。鳥肝を醤油と味醂で煮たもの。具無し味噌汁。

具の無い味噌汁は時々やる。具があるかどうかは味噌汁にとっては二次的な問題で、出汁と味噌が一次的。

May 22, 2018

【415】晩ごはん「赤飯と手羽元の煮たやつ」

取り立ててめでたいことがあるわけではないけれど赤飯。手羽元を醤油と酢で煮たもの。納豆。謎のらっきょ。写真ではほとんど食べられたあとだけど真柴豆腐店の田舎豆腐。田舎豆腐は塩とごま油で生レバー風にしていつも食べる。美味しい。おあげも美味しくてよく買う。

【414】晩ごはん「お茶漬け」


お茶漬け。お供は、カブの葉っぱをみりんと醤油で煮たもの。出汁をとったあとの昆布をみりんと醤油で煮たもの。大概のものはみりんと醤油で煮るとうまい。それと、粉末になっていないホールの紫(ゆかり)。実家で発掘した謎のらっきょ。

あと、水菜の炒め物と3日連続のカブサラダ。カブは前日の検証から四等分。味付けをバルサミコ酢から桃の酢と胡椒に変えてみた。これはこれでよい。

お茶漬けは子供の頃から好きで、よく好きな食べ物を訊かれ素直に答えて笑われた。梅干しと塩昆布が標準で、ちりめん山椒とへしこが最高峰。鮭、伽羅蕗あたりが中堅、肉屋のコロッケが番狂わせである。

May 21, 2018

【413】「自分の身は自分で守る」が向かう悲劇。

マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観てから約15年経つけれど、あのときの衝撃は何度でも蘇る。相も変わらず、
パトリック氏は事件の原因として、まずテレビゲームの影響を挙げ、「十代の若者の97%がテレビゲームを視聴し、暴力的なゲームは全体の85%を占める」との統計に言及。ゲームの殺人シーンを見ることで若者たちの攻撃性が強まり、暴力への感覚がまひしてしまうと指摘した。(CNN「テキサス副知事、高校銃乱射の原因列挙 「銃の問題ではない」

だそうだ。15年経っても「暴力的なテレビゲーム」が問題視されるのには驚く。変わったことといえばマリリン・マンソンがやり玉リストから消えたことぐらいか。

アメリカ建国の経緯に大きくまつわる先住民族インディアンの迫害・黒人奴隷強制使役以来、アメリカ国民の大勢を占める白人が彼らからの復讐を未来永劫恐れ続ける一種の狂気の連鎖が銃社会容認の根源にあるという解釈を導き出す。(wikipedia「ボウリング・フォー・コロンバイン」

「自分の身は自分で守る」という銃所持についての肯定的なポリシーは、不安と恐怖の転化によって生み出される。不安が恐怖を恐怖が防衛を防衛が不安を肯定し続ける、その無限の肯定連鎖は悲劇を量産する。アメリカだけの話ではない。

悲劇を回避するためにどこかで否定しなくてはならないとしたら、どこなのか。不安を否定することはできるのか。恐怖を否定することはできるのか。防衛を否定することはできるのか。果たしてそんなことができるのか。

可能性があるとすれば、それら不安、恐怖、防衛そのものに対してではなく、不安から恐怖、恐怖から防衛、防衛から不安、の「から」にある。「から」という短絡で強力な順接に対して、「なのか」と迂遠で脆弱な疑いをかけること。その迂遠な脆弱さを保持すること。

たぶん。

May 20, 2018

【412】晩ごはん「とんかつ」

とんかつ。フライドポテト。キャベツは長浜のおっちゃんが送ってくれたもの。水菜の炒め物。

写真には写ってないけれど、ごぼうチップス、言語合宿で参加者の方に教わった。その人は醤油につけてから揚げるとのことで、醤油漬けと塩の2パターン作ってみた。醤油漬けの方が香りも味も良かったので、次からは醤油のみにする。

写ってないもう一品、カブのサラダ。昨日スライスしたのを今日は四等分にしてみる。味付けは同じ塩、オリーブオイル、バルサミコ酢。小さめのカブだったせいか、今日の切り方のほうがよかった。

May 19, 2018

【411】晩ごはん「ほうれん草と豚肉の鍋」

まるネコ堂では食事の話になることが多いので、晩ごはんシリーズ開始します。


野菜を作っている滋賀の長浜のおっちゃんからほうれん草、カブ、キャベツを送ってもらった。

昆布で出汁をとり、生姜ひとかけ分を3つぐらいに切ってぼちょんと入れる。あとは大量のほうれん草とそれなりの量の豚肉を入れれば鍋。子供の頃、家ではこれを修飾子なしの「しゃぶしゃぶ」と称していたが、かなりアレンジの利いた代物だったと知ったのは大学に入ってからだった。

味付けは醤油と酢を適当にかけて食べる。ごまがあったのでごまを擦って酢、醤油、みりんでごまダレも作った。あと大根おろし。

もう一品。カブをスライスして塩、オリーブオイル、バルサミコ酢をかけた。オリーブオイルとバルサミコ酢は先日の言語合宿の参加者にいただいたもの。

基本的に毎日美味しいものを食べている。今日も美味しかった。やや食べ過ぎ。

May 18, 2018

【410】いまさら読む東浩紀『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』

面白く読みました。

恐ろしく整理されています。特にフロイト、ハイデガー、そしてデリダがきれいに整理されている。このあたりが著者の聡明さなんだと思います。 少なくとも本書はデリダ読解の一つの基準線になっていると思います。

後半やや込み入ってきますが(というか「まぁそうなるよね」っていうオチになるのだけど)、基本的には二分法を再帰的に駆使するすっきりした論述が貫かれているので読みやすいです。信じがたいことに、デリダ、ハイデガー、フロイトその他もろもろを読み込んでなくても読めます。読めました。

「否定神学システム」。これが本書における著者の主砲です。当然、批判的に使われます。特異点的(単数的)否定表現で語ると、自動的に「否定〈神学〉」に飲み込まれるという壮大な罠(ハイデガーすらハマった)として書かれています。パワフルです。

本書を読みながら何かに似てると思っていたのですが、ブルーバックスでした。講談社が出しているシリーズで、相対性理論だとか量子力学だとか、いわゆる「科学」をわかりやすく解説してくれる本です。中学高校のころ、夢中で読みました。あれに似ている。哲学版のブルーバックス。

ブルーバックスを読んでいた頃はSF好きでした。あの、科学的に理路整然と「世界が裏返る」ような感じが本書にもよく出ています。のちに著者がSF小説を書くことになるのはとてもよくわかります。本書を若い精神が読めば、その世界に導いてくれるかもしれません。物理学や数学と哲学とが親和する領域へ。

で、さて。

本書は「ジャック・デリダについて」という副題がついています。しかし、本当にデリダはそういうことなのだろうか、という疑問が湧いてきます。そういうことかもしれないけれど、そうではないことはなんにもないのだろうか。そうではないことがもしあったとして、デリダについてそれは重要ではないということだろうか。これは自分でデリダを読んでみてから判断したいと思います。

東浩紀さんの本は、本書以外にこれまでに『ゲンロン0』『一般意志2.0』『動物化するポストモダン』『クォンタム・ファミリーズ』『現代日本の批評1975-2001』(共著)を読みましたが、おすすめだと思うのは、次の本(商業的には失敗したとのことですが)と本書でした。ので、並べてリンクしておきます。

 

『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』はたしかに位置づけの難しい本です。ただ、そんなことになっていたとは全く知らなかった、という単純な衝撃を受けましたし、知れてよかった、読んでよかったと思いました。続編の『福島第一原発観光地化計画』も読みましたが、これはさすがに乖離が激しく(だからといって必ずしも悪いとは思わないのですが)なかなかおすすめし難いので、興味があれば。

May 12, 2018

【409】「人の目を見て話しましょう」という独自ルール

「人の目を見て話しましょう」と言う人がいる。

しかしこれは、この人の独自ルールにすぎない。この人がもし、人の目を見て話していなければ、「あなたはちゃんと話をしていない」と的確に指摘することができる、というだけだ。

世の中には人の目を見ていなくても、話をしている人がいる。その人にとっては、人の目を見ていることは話すことと関係がない。その人はその人なりのルールに則って話している。

往々にして、普段「人の目を見て話しましょう」というルールを採用している人の多くが、極地的な限界で「人の目を見ないことでこそ、話しができるのだ」という臨時ルールを恣意的に採用していたりする。この臨時ルールは、「人と話さないことで、その人の目を見たことになるのだ」と転倒していることもある。

ある特定のルールがなぜか大きな力を持ってしまうことの理由は、多くの人がそのルールを採用しているからだ。多数派のルールは比較的通用しやすい。しかしそれはあくまでも多数派の内部での話である。「多数派を形成できる」という一つの利点のためだけに、大きな力は正当化されている。

独自ルールは自分にとってそうとしかできないという強い根拠を持つが、他者が別の根拠を持っている可能性を消しさることはできない。その根拠の強さこそが、他者の根拠を強くするからだ。根拠の強さが、根拠を脅かす弱点となる。

この強さと弱さの緊張に踏みとどまる度合いに応じて、人は他者と会うことができる。会うまでは他者と呼べず、いつも突然現れる、あの他者のことである。

May 11, 2018

【408】ポップの闘い。新R25編集長渡辺将基さんのインタビュー記事を読んで

新R25の渡辺将基編集長のインタビュー記事が面白くて、続けて何本も読んでしまった。

特に秀逸だと思ったのが、新R25じゃないけど、これ。

あの見城徹に普段聞かないようなことを聞いてみた(怖いので覆面で)」(spotlight)

渡辺氏は一見、道化を演じているように見える。コワモテのイメージがある見城徹にインタビューするのは怖いから覆面だとできるかも、というのはおそらく最初の思いつきとしてあったのだろうけれど、そんな思いつきだけでは記事になるどころかインタビューも受けてもらえない。

この記事が秀逸なのは、見城徹氏はたとえ相手が宇宙人のマスクをかぶっていようが、おどけた変装用のメガネをしていようが、真正面に質問に答える人物なのだ、ということがわかるからだ。それが記事の内容と見事に合致している。755で質問に答える見城氏について、
渡辺:ただ、僕らから見ていてもびっくりするくらい濃い内容というか、誰よりも長文で丁寧に返信しているのが印象的で。

見城:そうだね。知らない人であろうと、孫みたいな年齢の人であろうと、自分に敬意があろうと無かろうと、とにかく誰であっても心を込めて返信しようと思ってやっていて、そうするとやっぱり長くなるんだよ。これはもう体質かもしれない。

渡辺氏はそこまで見城氏を読みきった上でこのインタビューを企画し、記事として成立させた。「自分に敬意があろうと無かろうと、とにかく誰であっても」という見城氏の答えを見越した上で〈たとえ宇宙人であっても、そうなのだ〉という仕上がりになっている。

同様な立ち位置は、新R25の

なんでそんなに嫌いなの? ホリエモン VS 週刊誌記者(っぽい編集長)イタコ対談!

これでも見て取れる。堀江氏の週刊誌嫌いを把握することはもちろんだが、「いや、好きなことをやれればそれでいい。それだけ。」という堀江氏の主張を、そのまま〈自分が面白いと思うからやりたい〉と自分の側に的確に反転させることによって、企画を成立させている。これをやられたらホリエモンも面白がるし断れないのではないかという確かさを企画にし、あとはそれをどこまで突き通せるかだ。

こういったインタビュー記事は誌面になる前の原稿段階でインタビュイー(インタビューを受けた人)に事前確認をとるものだけど、そのとき渡辺氏はきっとこう思っているのではないか。

「より面白くなるような修正は歓迎します。ただし、もしも少しでも無難な方向に修正しようとしたら私はあなたを見損ないます。」

仕上がりはとても軽くポップなのだけど、そこにはそこでの闘いがある。

ついつい渡辺氏のnoteを購入してしまった。

May 9, 2018

【407】自覚とは

僕自身が使った言葉が、使ってみたことで、実はそういうことだったのかと自分でわかることがある。その言葉を使うには、その時の文体や文脈が必要だし、その言葉を読み取るにはその時の状況が必要なのだと思う。

5月4日から6日の言語合宿中に僕が使った〈自覚〉という言葉について僕なりにあぁそういうことなのかと思ったのでここにメモしておこうと思う。

自覚とは、吉本隆明ならこういうような言い方をするのではないか。

自覚とは自己表出への視線である。
自覚とは自己表出から見ることである。
自覚とは自己表出を見ることである。

ここから逆算することができるとしたら(これは注意深くしなければならないが)、〈自覚していない〉というのは、同じく吉本ならこういうだろう。

自覚していないとは自己表出の逆立ちである。
自覚していないとは自己表出の挫折である。
自覚していないとは自己表出の屈折である。

とりあえず今はここまで。

May 8, 2018

【406】言語合宿終了。

A4数枚の文章を4つ読み、見開き2ページ程度の文章をそれぞれ一つずつ音読する。と書いてみれば、たったこれだけのこと。これに三日間ぎっちりかけるのだから、考えてみれば馬鹿げている。「面白さが勝ってしまう」とけんちゃんが言うように、全く退屈できない。子供のように遊び倒し、バタンと行倒れるようにそれぞれの限界を露呈する。頭の先から足の先まで内臓もくまなく蕩尽して。