May 21, 2018

【413】「自分の身は自分で守る」が向かう悲劇。

マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観てから約15年経つけれど、あのときの衝撃は何度でも蘇る。相も変わらず、
パトリック氏は事件の原因として、まずテレビゲームの影響を挙げ、「十代の若者の97%がテレビゲームを視聴し、暴力的なゲームは全体の85%を占める」との統計に言及。ゲームの殺人シーンを見ることで若者たちの攻撃性が強まり、暴力への感覚がまひしてしまうと指摘した。(CNN「テキサス副知事、高校銃乱射の原因列挙 「銃の問題ではない」

だそうだ。15年経っても「暴力的なテレビゲーム」が問題視されるのには驚く。変わったことといえばマリリン・マンソンがやり玉リストから消えたことぐらいか。

アメリカ建国の経緯に大きくまつわる先住民族インディアンの迫害・黒人奴隷強制使役以来、アメリカ国民の大勢を占める白人が彼らからの復讐を未来永劫恐れ続ける一種の狂気の連鎖が銃社会容認の根源にあるという解釈を導き出す。(wikipedia「ボウリング・フォー・コロンバイン」

「自分の身は自分で守る」という銃所持についての肯定的なポリシーは、不安と恐怖の転化によって生み出される。不安が恐怖を恐怖が防衛を防衛が不安を肯定し続ける、その無限の肯定連鎖は悲劇を量産する。アメリカだけの話ではない。

悲劇を回避するためにどこかで否定しなくてはならないとしたら、どこなのか。不安を否定することはできるのか。恐怖を否定することはできるのか。防衛を否定することはできるのか。果たしてそんなことができるのか。

可能性があるとすれば、それら不安、恐怖、防衛そのものに対してではなく、不安から恐怖、恐怖から防衛、防衛から不安、の「から」にある。「から」という短絡で強力な順接に対して、「なのか」と迂遠で脆弱な疑いをかけること。その迂遠な脆弱さを保持すること。

たぶん。


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