筆記用具には万年筆を使っている。書き味がいいから、見た目がカッコイイからというのもあるのだけど、最大の理由は、僕には分類ができないからだ。
筆記用具のことをそれほど考えていなかった頃、僕の周りには安物のボールペンが散乱していた。シャツの胸ポケットに赤ペンを一本入れていたつもりがいつのまにかなくなっていたり、3本になっていたりした。本棚やテーブルなどいたるところにペンが転がっていた。ペンが無いと探し回って、最後に机の引き出しを開けると10本ぐらいのペンが雑然と放り込まれているのを発見したりした。簡単に言えば僕は整理整頓ができない。
整理整頓されていなくても気にならないのなら問題はない。でも気になる。使いたいときに無いとかなりイラつく。こういう問題に対して、各種の整理整頓ノウハウは役に立たなかった。整理整頓の仕方がわからないというわけではなく、もっと根深いものがあるのだ。
同様の問題は、僕の編集業務において「適切な見出しが立てられない」こととしても現れている。正確に言えば、僕が立てた見出しは多くの人が同一の文章に対して立てる見出しの立て方とはどうやら違うようだという仕方で認識される。それがうまくいく場合もあるが、うまくいかない場合もある。うまくいかない場合、代替する案を考えるのはかなりの苦痛を伴う。
事は習慣や技術の位相である前に、認識や思考の位相にある。
このブログにはラベルをつけているが、ラベルは文章を書き終わったあとに僕の「印象」としてつけている。食べ物の話であるものが言葉の話であったり、社会の話題として書き始めた記事が僕自身固有の話題に終着したりする。「生活」という大カテゴリーの中の「食べ物」の更に下位の「メニュー」に格納されるような記事の書き方をそもそもしていない。書き方がそうなっていない以上、書き上がったものを階層的な分類に格納することは不可能である。書くこと、つまり思考や感覚の位相からして、僕は分類ができない。
こういうことを書くと「階層的な分類なんて外的なものに過ぎないのだから、そうじゃなくてもいいんだよ。もっと自由に」的な主張をしようとしているように読めると思うのだけど、そうではない。僕だって分類できるものなら分類したい。もどかしい思いもしている。分類できる人は素晴らしく美しく分類できる。その美しさに僕はいつも感嘆している。
同時に、習慣や技術のレベルではなく、思考や感覚のレベルこそが大事なんだということが言いたいわけでもない。この手の思考パターンは非常によく見られるのだけれど、抽象化された二つの区分に対して、そのどちらかを選んで優劣を回収すること自体が的を外している。
ある抽象化はそれに基づく具象との連関のなかでしか捉えることができない。ある問題とは、僕という一つのまとまりとしてのあるもののうちで生じている一つの具体的な問題であって、僕という一つのまとまりから抽象した二つの区分の優劣の問題ではない。
習慣・技術の位相と思考・感覚の位相は、相互に関連はするが明瞭に上下がある。思考・感覚は下部で土台を形成し、習慣・技術は上部で建屋を形成する。どちらがより重要かというのは問題ではなく、その位置関係として重要である。
いずれにせよ、僕なりのやり方の構築と、それが他者に認められることとは別の局面の話であって、特に、僕なりのやり方をこれから構築しようとするときに、他者からの認知性や他者への認知性は二次的なものである。それは「あとで」直面する以外にない。
さて、筆記用具。
対策を取ることは嫌いではない。このとき、取れる対策は、問題の根の深さに応じて自由度を得る。根本的な問題であればあるほど、画期的に考えることができる。
1 整理整頓や分類が必要になるのは、それが複数あるからだ。
2 そもそも筆記用具など使わなくてもいいのなら、それが最善の策になる。
3 しかしどうやらそういうわけにはいかない。僕は書きたい。書きたい以上は少なくとも一つ必要になる。
4 一つだけならば、一生僕はそれだけを使えばいい。これで分類や整理整頓による問題はほぼ無効化できる。
5 だとしたら、何を選べばいいか。
僕にとって筆記用具という問題を解決することは、このような問題を解くことに等しい。そして僕は、このような問題を解くことが好きなのだ。万年筆はそのようにして導かれ、試行され、検証された。
試行と検証の段階では、思考・感覚から紐付けられてはいるが、その重心は習慣・技術の位相に移っている。紐の端がどこへ着地するのか。試行され、検証されていくことが技術や習慣となって現れる。
こういう経路をとってたどり着いた僕にとって万年筆とは、使う気になるもの(使い心地が良いもの)で、おそらく死ぬまで使え、これだけ持っていればいいものである。たとえ、現時点でという留保がついたとしても、かなりの射程を持っている。
さて、このエントリーにラベルをつけるとしたらどうすればいいのか。ある具体性を持って上下の位相を貫くように書いたとき、すべてが不可分に見えてくる。