3月28日に國分功一郎『中動態の世界』ゼミの3回目を実施した。
新型コロナウイルスで世界中が大変なことになっているときに哲学書なんか読んでどうする、という気分には全くならず、ゼミをやっていて本当によかったと思う内容だった。
以前、アラタの皮膚炎(アトピー)が大変だったときにデリダの『グラマトロジーについて』のゼミを半ば死にものぐるいでやったのだけど、そのときのことを思い出した。
【547】デリダゼミを決行する。
あのときよりはずっと緊張度は低いけれど、あのときデリダゼミができたことはやはり大きな出来事だったのだと思う。
今回の中動態ゼミの参加者は3人。レジュメが4つ。参加者よりレジュメのほうが多いのは、参加しなかったカエルさんがレジュメを提出していたため。第1回のときもそうだったのだけれど、こんな風にもゼミに参加いただけるのはありがたい。(レジュメはゼミサイトに掲載。)
『中動態の世界』ゼミは全9回。9ヶ月に渡る。この長期間、一冊の本を複数の人がそれぞれに読んで、その体験を定期的に持ち寄る。長くてゆっくりとした出来事だ。この出来事に対する関与のスタンスもそれぞれで「当日は別の場所にいるけれど便りは出すよ」というのはとても粋だなと思う。(カエルさんの「レジュメを書いた日のこと」参照)
ゼミ当日の様子は、ゆうきさんも書いてくれている(「もう日常ではない、ある一日のこと」)。
今回は『中動態の世界』第3章「中動態の意味論」。この章は失われたパースペクティヴとその復元について丁寧に書かれている。「パースペクティヴ」というものを体験できる良い文章だ。この文章は現在地も照射してくれる。
たとえば、今のような危機的な雰囲気にあると、日常のシーンではなんとなくぼやけていた人それぞれのパースペクティヴの違いが可視化される。職業の違い、年齢の違い、家族構成の違い、地域の違い。切迫度が全く異なる人が隣同士に座る。普段ならそれほど問題にならないことが、とても厳しい断裂となる。
「分断」と言われればそうだが、もう少し深いところで言えば、これは、立場や視点が違うとどれほど世界が異なって経験されるかというパースペクティヴの問題だ。このことを落ち着いてイメージできるようになると、危機は単なる「分断」という悲劇ではなく、なにかの「契機」となりうる。
こういう時期だからこそ優れた哲学書はとても良い仕事をする。そう思う。
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