昨日いや、もう一昨日のなっちゃんの影舞は、面白かった。文章を音読する中でやる影舞と音楽が流れる中でやる影舞の違いを感じる。音楽と文章の違い。
音楽というのは絶え間ない流れを作り出す。もちろん、必ずではないだろうし、事実一部の現代音楽ではそうではないものもあるだろうけれど、基本的にリズムがあるし、メロディがあるものも多い。
音楽では、連続性が強く働く。予測性と言ってもいいかもしれない。
一方音読、つまり言語の場合、こちらももちろん一部は強い連続性を持っているけれど、それでも、次に何が来るのかわからないという不連続性の度合いは音楽より強い。
言語は、意味とイメージを同時にもたらす。その両者とも物理的な制約はなく、意味とイメージが、その都度突如として生じる。
影舞で改めて感じたのは、言葉のつながりというのはそれまで思っていた以上に、連続性の薄いもので、なんとなくつながりがあるような気がしていても、結構な自由度を持って大きな領域を跳ぶのだと思う。油断がならない感じというか、文脈という意味では予測性はあるけれど、この文脈の予測は割りと頻繁に外れる。大きな文脈は予測できても、具体的な言葉の選択や並びは、予測しにくい。
節回しのある落語や講談だったら音楽に近かったのかもしれない。