April 25, 2016

【333】『心的現象論序説』の「原生的疎外と純粋疎外」についての現時点でのメモ。

昨日一昨日とゼミで、特に昨日の『心的現象論序説』はすごかった。

難解で知られる「原生的疎外と純粋疎外」というやつ。

原生的疎外はまぁ、なんとなく。「生き物である以上、〈自然〉に対して異和を持つこと」というのでなんとなくわかる。

純粋疎外はもう大変だった。どうにかなんとか、今のところゼミのメンバーで共有できたのは、例えば視覚でいえば「何かを見た時に、それを見た人〈にとって〉、どうしてもそう〈見える〉もののうちで、対象を見ているという視覚のなかにあるもの。これを純粋視覚と呼ぶ。」ぐらい。

吉本隆明は、いかにも簡単に具体例として灰皿を見た時の話を書いているのだけれど、最初、それはあくまでも「その時の吉本〈にとって〉」というのを読み落としていて、僕は間違えた。

いくら具体的にかかれていても、それが具体的である時点で、もう僕の「視覚」ではないわけで、「灰皿のキズを見つけたところ? 材質について考えたところ? 製造工程を考えたところ? 恋人の部屋の灰皿を思い浮かべたところ? どこまでが純粋視覚なの?」というふうな疑問が出てしまう。

「どこまで」という疑問自体が実はおかしい。「それを見た時にそういうふうに見える。心的な現象として」なのだから、その人にとって「どこまで」という疑問は無い。

これも間違っているかもしれないのだけれど、ともかく今はこういうふうに読んでおいて、これでもう少し先まで読み進めてみる。



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