December 10, 2018

【526】「信頼関係」というものは結果的に現れ、そのたびに変動し続ける。

「信頼関係があればできる」という言い方には、他人を対象とした何事かが「できる」という実体とは〈別に〉「信頼関係」というものが人間と人間の間にあるというイメージを持っている人が使う言い回しである。

そうではなくて、他人と何事かができるということ自体によって、信頼できたり、信頼を失ったりするというイメージを僕は持っている。他人とともに何事かが起きたということそのものが「関係」なのであって、それとは別の位相に「目には見えない絆」として「信頼関係」があるわけではない。過去の「何事か」の蓄積によって、その信頼・不信の変動度合いが小さくなったりすることもあるが、いずれにせよ、実体として生じた「何事か」があるだけだ。

初対面の人と話を円滑に進めるために「まずは信頼関係を築く」などという行動をする人は、だから僕には不審に思える。「信頼関係さえあればできる」という信念が透けて見えるからだ。言うまでもなく「信頼関係」なるものがあってもなくても「できる」とは限らないし「やりにくいことが都合よくやりやすくなる」ということもない。むしろ、「信頼関係」なるものへの無駄な信頼によって、出来事そのものがおろそかになって失敗しやすくなる。初対面の人と対峙しているときに、余計なことをしている余裕などないはずだ。

「信頼関係」があることで省略できる手続きがあるのだとすれば、「信頼関係」とはさほどのことではないことについて支払いを後回しにできる「ツケ」や、前払いした「回数券」程度のことであって、僕にはそういった領域が「信頼」が重心を置くような場所には思えない。

そのことそのものをちゃんとやることに全力を注いだほうがいい。信頼というのは常に、「ちゃんとやる」に紐付いている。

その上で、「信頼関係」というものを再び俎上に乗せるのであれば、こうなる。

なぜ「ちゃんとやる」ことから結果的に生じているはずの「信頼関係」が、出来事に先立って、予め、恒常的に、出来事とは別の位相で、存在するかのように感じるのか。

いったんここまで。


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