カウンセラーがクライアントの「ために」やる以上、そこには限界がある。
それは、依頼されて取材をして取材対象についての文章を書くライターという仕事が、誰にも依頼されずに自らの文章を書く(未)作家に対して「ある限界」と「ある無責任さ」を持っていることと同じである。
もしも、カウンセラーが「自らのために」相談行為をやりだすとどうなるか。少なくとも「カウンセリング」の名のもとにおおっぴらにはできないだろう。おそらく職業倫理に抵触する。どれほどの注意力と胆力を持ってそれをなしたとしても、行き着く先は立場を利用したひどいハラスメント的結末である。
こんなことを考えるのは、最近「進路相談」というか「キャリア相談」というか、そういう感じの相談をされる、あるいは、意図せずそんな雰囲気になることがよくあって、その中で、僕はいつもある感覚を持っていることに気がついたからだ。
その人のためを思って言おうとすると、とたんに僕は興味が減退する。そして、どこか無責任になる。その人のためにと思えば思うほど、それは進行する。逆に、僕のためを思って何かを言おうとすれば、僕の興味は亢進し、責任感というか、自らが関与することへのある手応えを得る。ただし、それが本当にその人にとって良いことだと言い得るだけの根拠はない。そのとき、根拠がないことと責任があるということが両立する奇妙な場所になる。
いつものようにアタリマエのことを言っているという気分がしている。自分のためにやれば、そりゃ、興味をもつことも、責任感が出ることも当たり前である。しかしである。それが、他人のこと、他人の将来、他人がやりたいこと、他人が困っていること、などにまで及ぶとなるとちょっと事情は異なってくる。これはやはりそう簡単には整理できるはずがない、もっと複雑なことなのではないかというフィードバックがかかってくる。
そういう、ある場所にいる気分がしてくる。
で、わりとゆっくり考えてみる。だがやはり、どう考えても、僕が誠意を持つならば、僕にとってよいと思うように、僕にとって素敵な世界であるように、僕はその人に対して言えることを言うしかない。
ともにこの世界に存在する他者としての相談行為にともなう責任は、業務的責任のレベルではなく、人道的責任、あるいは人類的責任とでもいうべきもので、契約書に記すことができないタイプの責任である。
「クライアントのために」やるからこそカウンセリングは、そういった契約書に記すことができないタイプの「責任」を問われない。だからこそ業務として可能なのだ。
僕は僕が面白く豊かだと思う世界を、今になってわりと明瞭にイメージすることができるようになって来ていて、だから、そういう世界でともに過ごしてみようぜということを誰にでも提言できるようになってきたということなのだろう。ある意味、無責任極まりないことを言うことになったとしても、それが最大限僕の責任だと思う。