July 6, 2015

【197】直面している「それ」。

目の前、眼鏡のレンズよりも顔に近いところあたりに「それ」がある。「それ」は顔の前にいつもある。鉄板のようなものであればその存在に気づくだろうけれど、「それ」は一見透明に見える。ガラスのようなものか、細いワイヤーのようなものか、フェンスや網のようなものか、煙や霧のようなものか、しかしあまりに近すぎて、「それ」をはっきりと見ることができない。見ることができないから無いと思って、「それ」よりももっと遠くにあるものを見たり触ったり動かしたりしている。でも「それ」は常に目の前にあってその存在から逃れることができない。あまりに近いので焦点をあわせるのすら難しい。

文字通り僕たちは「それ」に直面している。直面しようとする意志の有無を確認することは難しいので「直面させられている」と言ったほうが正確かもしれない。「それ」を通してしか僕たちは何も見ることができていない。「それ」の存在は確実に僕たちの行動や感覚に影響を及ぼしていて、「それ」はいつも、外へ向かう視線や行為を妨げたり、外から来る視線や行為を遮ったりしている。

その「それ」がある瞬間、不意に見えることがある。見えると言っても、そこに何かがあるといったような淡い見え方なのだけど、その瞬間は、「それ」がある以上、その向こうにあることをいくら見ようとしても、いくらさわろうとしても、意味なんて無いのだと思える、そんなときがある。

「それ」が見えるという稀なことが起きて、さらに見えた「それ」がどんなふうだったかを何らかの方法で表すことができた時、その表出がなぜか他者に対して、他者自身の「それ」の存在や、他者自身が見た「それ」の描写を呼び起こすことがある。直面している「それ」を見ることができるのは、「それ」に直面している人だけであり、他者が直面している「それ」を見ることはできない。にも関わらず、自分が直面している「それ」についての表出が他者の直面している「それ」と通じることがある。

その、それぞれの直面している/させられている「それ」の描写と「それ」への行為の集合体が「現代文学」とか「現代美術」とかいう時の「現代」である。「それ」はあまりに近く、あまりに高解像度なので、その描写が客観的な意味をなすか、なさないかという段階を簡単に超えてしまうが、その個々の表出の集合としての「現代」は、直前から引き剥がされて、対象として遠ざかる。遠ざかった「それ」の集合体としての「現代」が、再び人にそれぞれの「それ」の存在を思い出させて、呼び起こす。

「それ」は邪魔なものであり、頼もしいものである。諦めであり、望みである。「それ」は自分にだけ直面している。誰もが自分の「それ」に直面している。「それ」の描写や「それ」への行為の方法はそれぞれである。その方法をわずかずつでも見出していくことにしびれるような快感がある。


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